ポップを擬態し、パララックスを生きる。「アレックス・ダ・コルテ 新鮮な地獄」展(金沢21世紀美術館)レビュー

世界で大きな注目を集めるヴェネズエラ系アメリカ人アーティスト、アレックス・ダ・コルテのアジアの美術館で初めての個展。全11点の映像インスタレーション作品などが紹介される本展を、文化理論、メディア文化論の専門家である清水知子がレビュー。

アレックス・ダ・コルテ ゴム製鉛筆の悪魔 2019 © Alex Da Corte studio

大衆文化のイメージ

「ミッキーマウスの本質はその耳にある」———そう言ったのは、アメリカの作家ジョン・アップダイクだ。ミッキーマウスの黒くて丸い大きな二つの耳は、スクリーンのどこから眺めてもけっして重なることはない。その耳はしかし、現実世界ではありえない視覚的形態だからこそ、身体器官としての耳から離れ、アメリカを象徴する現代の資本主義社会の記号性そのものとして君臨してきた。

テレビ、映画、コミック、アート、アニメーションをはじめとする様々なメディアによって彩られる「アメリカ」のイメージは、かつてベンヤミンが論じたように大衆の夢と集合的な欲望を投影する装置として編み出された。とはいえ、「大衆」というものがあらかじめ存在するわけではない。ただ人々をそう見なす方法があるだけだ。そしてまたイメージとは、かつてジョン・バージャーが述べたように、「作り直された、あるいは再生産された視覚」である。

では、大衆文化のイメージはどのようにして生成され、根強い文化装置として人々の心を動かしてきたのか。そして今日、それらのイメージは新しいテクノロジーの進展とともにどのように変化しているのか。

アレックス・ダ・コルテ Photo by Hedi Slimane  © Alex Da Corte studio

アレックス・ダ・コルテは、1980年にニュージャージー州カムデンに生まれた。幼い頃は、ディズニーのアニメーターになることを夢見ていたという。現在、金沢21世紀美術館で開催されているアジア初の個展「Alex Da Corte Fresh Hell アレックス・ダ・コルテ 新鮮な地獄」は、ダ・コルテ自身が独自のひねりを加えながら20世紀の資本主義社会を象徴する「アメリカ」の大衆文化のイメージを再構築し、加速する情報社会に暮らす私たちに自身の身体感覚や認識のありようをユニークに問い直す展示である。

ダ・コルテの世界に足を踏み入れると、ポップな色彩に心を奪われ、しかし同時に、どこかノスタルジックな思いに駆られる。それはここで展開されるアイコンやイメージがテレビや映画といったマスメディアによって形成された文化的記憶を喚起させるからかもしれない。

窓が写し出す生と死、不確実性と恐怖

私たちがまず目にするのは、ネオンによって描かれた蔦の葉とそれが映り込んだ窓からなる《最後の一葉》(2022)である。知られるように、これはO.ヘンリーの小説のタイトルでもある。肺炎に苦しむ女性がベッドの窓から見える蔦の葉に自身の運命を重ね、「葉が全て落ちた時、自分も死んでしまう」とつぶやく。葉はいよいよ最後の1枚となるが、嵐にも耐え散ることはなかった。彼女は生きる気力を取り戻し快方に向かう。だが、その葉は冬の嵐のなかで友人の画家が壁に描いたものだった。そしてこの友人はそれがもとになって死んでしまう。

会場風景より、《最後の一葉》(2022)

蔦の葉によって構成されるこの生と死の循環は、ここでは鮮やかなネオンによって映し出されている。20世紀初頭の照明広告を席捲したネオンは蛍光灯の普及とともに衰退した。ネオンが新たなノスタルジーの対象として見出され、文化として復興していくのは60年代半ばからだ。環境と犯罪の関係を表す「割れ窓理論」に着想を得た本作は、美術館の窓ガラスに写りこむネオンの蔦とともに、そうした「アメリカ」の記憶の一端を映し出す。

窓は写し鏡であると同時に、世界を枠づける認識論的問題を提起する装置でもある。じっさいテレビや映画が登場する以前、画家たちは西洋文化の様々な光景を窓を通して描いてきた。

アメリカのヤングアダルト向けの人気ホラー小説『フィアー・ストリート』シリーズを援用した映像作品《開かれた窓》(2018)もまた窓をモチーフにしている。ロックが解除された窓を通して若い女が狙われる、というアルフレッド・ヒッチコックのお気に入りのエピソードだ。ミュージシャンのアニー・クラークが片目の猫を抱き、R・L・スタインによる『猫』の表紙を模している。犯人は逃亡し地下室の窓の鍵は開いたままになっているかもしれない。彼女に恐怖が押し寄せる。

ヴィヴィッドな色合いのプールボールが跳ね回るポップなイメージとは裏腹に、彼女の脳内は恐怖(FEAR)の頭文字からなる「虚偽の証拠が本物のように見える(false evidence appearing real)」思いに占拠されていく。本作において、窓=スクリーンは公私の空間と「安全」を境界づける装置であると同時に、膨大な情報によって不確実性と恐怖を煽るスクリーン文化の時代の心象を浮き彫りにする。

アレックス・ダ・コルテ 開かれた窓 2018 © Alex Da Corte studio

キャラクターの擬態と再文脈化

とはいえ、ダ・コルテの世界に欠かせないのは、なんと言ってもテレビというテクノロジーだろう。テレビは多くの人々が情報を共有する公的空間と家庭のリビングルームに象徴される私的空間とを接続するインターフェイスとして機能してきた。

ただし、私たちがここで目にするのは、鏡の国のアリスのごとくスクリーンの向こうの世界に入り込んだダ・コルテの姿である。彼は、あたかもドラマや映画の舞台装置のなかを生きているかのように、誰もが知るアニメのキャラクターや美術史上の人物に扮してこちら側に問いかけてみせる。

アレックス・ダ・コルテ ゴム製鉛筆の悪魔 2019 © Alex Da Corte studio
アレックス・ダ・コルテ ゴム製鉛筆の悪魔 2019 © Alex Da Corte studio

もちろん、誰かの擬態を演じるという手法はけっして新しいものではない。たとえば、シンディ・シャーマンは1950年代のB級映画、テレビドラマに登場する女性、ピンナップ・ガール、あるいはデザイナーズ・ブランドのファッション・モデルに登場するステレオタイプな女性役を演じ、セルフ・ポートレイトとして写真に収めてきた。そのすべての作品を「無題 Untitled Film Still」(1977〜1980)とすることで、そこに自己とともにある匿名の「だれか」を映し出し、見る者の解釈の呪縛から逃れてみせた。

あるいは、ゴッホやマネといった西欧の「美術史」の名画のなかに入り込む森村泰昌のセルフ・ポートレイトは、美術批評家の椹木野衣が指摘したように、西洋美術の異人としてのわたしたちがなぜわざわざ西洋人のように「美術」をやっているのかを問い直し、西欧に従う国家に庇護された主体形成の問題を鋭くえぐりだした。

会場風景より、《ゴム製鉛筆の悪魔》(2019)

だが、ダ・コルテの世界が印象深いのは、擬態の政治学とも呼べるそのユニークな技法である。《ゴム製鉛筆の悪魔》(2019)は、巨大でカラフルな5つのキューブに、ピノキオや白雪姫の継母をはじめとするディズニー・キャラクター、バッグス・バニー、セサミストリート、オズの魔法使い、アメリカの子供番組に登場した「ミスター・ロジャース」といったポップ・カルチャーのアイコンが無数に織りこまれ、57のチャプターとプロローグで構成されたアメリカの叙事詩的な映像作品だ。ダ・コルテは現実とファンタジーを繋ぐ〈記号〉と化したこれらのキャラクターの多くを自ら演じ、自身のビジョンと縫合しながらそのイメージを再文脈化していく。そうすることで、テレビの経験を「見ること」である以上に「物語ること」へと変容させているのである。

会場風景より、《ROY G BIV》(2022) 撮影:今井智己

また「愛」「喪失」「解放」をテーマにした《ROY G BIV》(2022)では、《大ガラス》《遺作》といったマルセル・デュシャンの作品で知られ、コンスタンティン・ブランクーシの彫刻を収容するフィラデルフィア美術館のギャラリーが再現される。デュシャンとデュシャンが演じるローズ・セラヴィに扮したダ・コルテが登場し、さらにブランクーシの彫刻《接吻》に生命が吹き込まれる。デュシャンやブランクーシといった不動の地位を獲得した作家の作品がダ・コルテの手によって生命を獲得し、新たに動き出す光景は楽しくも毒のあるシュールな世界だ。ちなみに《ROY G BIV》とは、虹の七色の頭文字(赤、オレンジ、黄、緑、青、藍、紫)を順番に並べたもので、会期中には色の順番が7回変わり、映像を流すキューブ型の彫刻も7色に塗り替えられるパフォーマンスが行われるという。この変化もまた本展の見どころと言えよう。

アレックス・ダ・コルテ ROY G BIV(ロイ・ジー・ビヴ) 2022 © Alex Da Corte studio

ダ・コルテにとって、キャラクター、イメージ、モノは夢の世界に存在するものであり、少なくとも居場所のなかった幼少期の彼にとって、そこはかけがえのないセーフスペースだった。ダ・コルテによれば、それらに扮してフィクションの世界に入り込んで過ごすことは、彼自身が変化していくためであるという。ある場所で過ごし、その場所を離れたとき、物理的にはそこに存在していなくてもかつて過ごした固有の経験と記憶はかけがえのないものとして自らの生のなかに蓄積される。自身のルーツや歴史を理解していくために、断片的な固有の記憶から自らをコラージュして編み直していくこと。それは、既存のルールからなる檻から抜け出すための方途でもある。

ただし、ダ・コルテはたんに幼い頃の心地よい思い出に回帰し安易に同一化するためにそうした文化的オブジェに扮しているのではない。ここで重要なのは、彼が過去とのあいだに距離を感じながら、ある種のアイコンとして平面的な記号と化したお馴染みのキャラクターに深みを与えるためであるということだ。ダ・コルテは、愛すべきキャラクターや美術史上の人物を自ら演じることで、そのキャラクターとの時間を生き直し、資本主義社会のなかで消費され薄ペラになったフィクションの断片と出会いなおす。彼は、そのようにしてキャラクターを再文脈化することで、これまでとは異なる仕方でそれらのアイコンを理解しようとしたのである。擬態によって奥行きを与えることは、それらを本来の意味から引き剥がし、過去の記憶と交渉しながら、新しい物語を創出していくことなのである。

オルデンバーグやウォーホルら、ポップとの比較

会場風景より、《その重さを運ぶ》(2003)

ダ・コルテがこうした世界を切り拓くきっかけとなったのは、22歳の頃に手がけた《その重さを運ぶ》(2003)だった。舞台セットや小道具、あるいは巨大なインスタレーションを作るには彫刻が不可欠な要素となる。テレビのブラウン管の中に映し出される本作は、行き詰まりを感じていた当時の彼が、縫製された巨大なケチャップのソフトボトルを抱えてフィラデルフィアの街を歩く自分の姿を記録した作品だ。アメリカの彫刻家クレス・オルデンバーグが、巨大な歯磨き粉のチューブを運ぶ自らの姿を収めた映像に着想を得た。加えて、彼はこのとき、祖母の裁縫に着想を得て、硬固で不動だと思われていたものを柔らかで変容可能なものとして自分のものにしていく術を発見したのだと言う。断片と断片を縫い合わせて世界をコラージュしていく縫製は、彼にとって、困難に思えたことを受け入れ、マチズモを緩和することであり、人間であることの意味をより柔軟に理解する営みでもあった。

会場風景 撮影:今井智己

じっさいダ・コルテの世界にマッチョなヒロイズムが紛れ込むことはない。むしろザ・スーパーマン》(2018)に見るように、擬態をめぐる問いは、個人的な経験を通して、分裂した自己ないし分身をめぐる問題へと向かうことになる。ダ・コルテによれば、あるとき、パリに滞在していた彼に友人から画像が送られてきた。それはルーヴル美術館でレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」の前に立つダ・コルテの画像のはずだった。だが、翌日、彼はそれが自分の写真ではなく、ヒップホップ界のアイコンたる白人のエミネムの写真であることに気づく。なぜエミネムと自分を取り違えたのか。スーパースターとしてのエミネムとその暴力性、あるいはエミネムが孕む相異なる公私の二重のイメージは、社会に循環し拡散された文化的なオブジェのイメージを再考してきたダ・コルテ自身の問いと重なる。日常的に見ているものと知っているものとのあいだの関係の不安定さが改めて浮き彫りになる作品だ。

アレックス・ダ・コルテ ザ・スーパーマン 2018 © Alex Da Corte studio

かつてリチャード・ハミルトンはポップアートを次のように定義した。

大衆的であること(大衆の鑑賞者のために作られていること)
一過性であること(短期間で決着がつくこと)
消耗品であること(簡単に忘れられるものであること)
安価であること
大量生産されたものであること
若々しいこと(若者向きであること)
ウィットに富んでいること
セクシーであること
まやかしであること
グラマラスであること
ビッグ・ビジネスであること

リチャード・ハミルトンやロイ・リキテンシュタイン、アンディ・ウォーホルといった第一ポップ時代のポップ・アーティストにとって、商品化や資本主義は一方的に否定するものではなく、むしろ資本主義の外部はないことを認めつつ、シニシズムを孕みながらその論理に抗し、換骨奪胎していくことがポップの戦術だった。

美術理論家のハル・フォスターによれば、ポップが用いる戦略として、アーティストたちはポピュラーカルチャーが産出する紋切り型化したイメージを忠実になぞってみせるが、多くの場合、そうしたイメージを脱—物象化することを狙ってそうするのだという。彼らは狡猾なまでにメディアに精通し、さらにメディアを弁証法的に理論化してもいた。だからこそ、独自の芸術的イメージを産出し、既存の母型のなかでそれを擬態しながら探針を下ろしていったというわけだ。

ポップとホラー、その両義性

ダ・コルテの世界もまた第一ポップ時代のいくつかの戦略と響きあうところがある。ただし、フォスターが指摘するように、第一世代のポップが、女性を客体=物体、さらにはフェティッシュとして徴用していたこと、またポップに従事した有色人種のアーティストに注意が向けられることがなかったこと、また絵画に力点を置いて考察されていたことを想起すれば、アメリカの消費文化のポップさと分断の進む現実社会の陰鬱さをパラレルに展開するダ・コルテの世界は、ポップとホラーを共存させ、より現代的な問いへと開かれたものであると言えよう。

会場風景より、《マウス・ミュージアム(ヴァン・ゴッホの耳)》(2022) 撮影:今井智己

最後に、ダ・コルテの制作の秘密基地とも言える《マウス・ミュージアム(ヴァン・ゴッホの耳)》(2022)に目を向けてみたい。美術館のなかに設けられたもうひとつの美術館。これはクレス・オルデンバーグが自身の作品を展示するために制作し、1972年のドクメンタ5で公開された、ミッキーマウスを象った美術館《マウス・ミュージアム》に着想を得たものだ。ただし、ダ・コルテの作品では、ゴッホへのオマージュを込めて左耳が切り取られている。ダ・コルテによるこのミニチュア美術館は、「ミニチュア化とは歴史の暗号のことだ」と言ったアガンベンの遊戯をめぐる一節を想起させる。

遊び道具とは、事物のなかに含まれている歴史性を具現化して見せたものなのであり、その歴史性をそれは特別の操作をつうじてうまく抽出しえているのである。じっさいにも、古遺物や記録文書の価値と意義は、その古さ、すなわち、それらが多かれ少なかれ遠い過去を現在化し手に触れることができるものにすることにかかっているのに対し、遊び道具のほうは、過去を解体し変形させることによって、あるいは現在をミニチュア化することによって———すなわち、通時態にかんしても共時態にかんしても、おもちゃにしてしまうことによって———、人間的な時間性それ自体、「かつては……であった」と「いまはもう……でない」とのあいだの純粋な隔差ないしはずれ(scarto)そのものを現在化し手にふれることができるようにするのである。

会場風景より、《マウス・ミュージアム(ヴァン・ゴッホの耳)》(2022) 撮影:今井智己

つまり、《マウス・ミュージアム(ゴッホの耳)》は、ダ・コルテが自身の作品を通して解体し変形させてきた、彼にとってかけがえのない愛すべきキャラクターたちと過ごした過去とのあいだの純粋な隔差ないしずれ(scarto)そのものを現在化し手にふれるための宝箱なのだ。ダ・コルテが差し出すその隔差は、メディア論的なある種のパララックスとして捉えることができるのではないだろうか。資本主義の寵児としてその階段を駆け上がっていったミッキーと、生前まったく絵が売れず、アトリエで自らの左耳を切り落とし、娼婦に送りつけたゴッホの現実を思うと、一見対照的な光と闇が共在するこの空間もまた、ポップとホラーが浸潤したダ・コルテならではの脳内空間なのである。

「新鮮な地獄」という言い回しは、一見すると相反する言葉が組み合わされているように思われる。だが、ポップとはつねに両義的であり、むしろ文化の様々な矛盾に光を当てることによって、批判的な意識を生み出すところにその政治性があると言えるのではないだろうか。

主要参考文献
・ジョン・バージャー『イメージ―視覚とメディア 』伊藤俊治訳、ちくま学芸文庫、2013年
・ハル・フォスター『第一ポップ時代: ハミルトン、リクテンスタイン、ウォーホール、リヒター、ルシェー、あるいはポップアートをめぐる五つのイメージ』中野勉訳、河出書房新社、2014年
・Richard Hamilton, Collected Words, Thames & Hudson, London, 1982.
・ジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史——経験の破壊と歴史の起源』上村忠男訳、岩波書店、2007年

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清水知子

清水知子

しみず・ともこ 東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授。愛知県生まれ。筑波大学大学院博士課程文芸・言語研究科修了。博士(文学)。専門は文化理論、メディア文化論。著書に『文化と暴力――揺曳するユニオンジャック』(月曜社)、『ディズニーと動物――王国の魔法をとく』(筑摩選書)、『21世紀の哲学をひらく――現代思想の最前線への招待』(共著、ミネルヴァ書房)、『芸術と労働』(共著、水声社)、『コミュニケーション資本主義と〈コモン〉の探求――ポスト・ヒューマン時代のメディア論』(共著、東京大学出版会)など。訳書に、ジュディス・バトラー『非暴力の力』『アセンブリー行為遂行性・複数性・政治』(共訳、青土社)、アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート『叛逆 マルチチュードの民主主義宣言』(共訳、NHKブックス)、デイヴィッド・ライアン『9・11以後の監視』(明石書店)など。