公開日:2025年1月29日

「西條茜展 ダブル・タッチ」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)レポート。気鋭の作家が見せる、陶の世界のダイナミックな反転

現代アートの公募展「第1回 MIMOCA EYE / ミモカアイ」大賞受賞作家の個展。会期は1月26日〜3月30日

会場風景 撮影:筆者

公募展大賞作家の個展

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(香川県)で、「MIMOCA EYE / ミモカアイ」第1回大賞受賞者、西條茜の個展「『第1回 MIMOCA EYE/ミモカアイ』大賞受賞記念 西條茜展 ダブル・タッチ」が開催中だ。会期は3月30日まで。「MIMOCA EYE / ミモカアイ」は、「若い作家を育てることも、美術館の役割」という猪熊弦一郎の言葉を指針とした企画で、35歳以下の若手作家を対象にした公募展。大賞を得た西條に、副賞として、個展の開催機会が与えられた。

西條は、2014年に京都市立芸術大学大学院美術研究科修士課程を修了。「身体性」をキーワードに、陶彫作品及びそれらに息や声を吹き込むパフォーマンスを発表してきた。

今展は、2022年の受賞から2年のあいだに制作された新作で構成されている。これまでのコンセプトの深化と新たなアプローチが鮮やかに見え、若手作家にとっての「2年間」の密度の高さ、成長に圧倒された。

触れる/触れられる、二重の感覚「ダブル・タッチ」

タイトル「ダブル・タッチ」は、ヒトが胎児から新生児期に、自分で自分自身に触れている手の感覚と、自分が触れられている感覚、二重の触覚から、自身の身体イメージを探索する発達段階のことを言うそうだ。「保育園で授業を持ったときに教えてもらった言葉で、そういう原初的な感覚が、いま、自分がやっていることと関係があるように思えた」と西條。

会場風景より、《mother’s skin》(2024)。肉のベッドのような台 撮影:筆者

展示室の入り口近くにある作品は《mother’s skin》。ピンク色で柔らかな凹凸のある台状のオブジェに、小さな穴が穿たれている。展示会場は、吹き抜けを囲むゆったりした回廊で、高い天井から自然光が降り注いでいる。穴がその光を呼吸しているようだ。「ここから展示をぐるっと回って人生が始まるような、そんな構成をしています」

《肩をならべて》(2025)部分。生き物の皮膚を思わせる重厚な釉薬の重なり。「表面と空洞のギャップへの関心が、私の創作のベースにあるもののひとつ」と西條 撮影:筆者
会場風景より、《静寂に驚き目が覚める》(2025)。小さい命を抱え込むような形 撮影:筆者
銭湯の浴槽で複数人で窮屈に入浴した経験から発想された《惑星》(2024)部分。パフォーマンスでは3人のパフォーマーが密着してこの管から息を吹き込む 撮影:筆者

挑発する開口部の魅惑

抽象画のように複雑な色調の釉薬をまとった有機的な形のオブジェが並ぶ。その多くに、管や開口部があるのが、西條の作品の特徴だ。

「自身の身体を実感し世界とのコミュニケーションの在り方を探りながら創作をしている」と語る西條だが、作品は同時に、近現代の陶芸に伴う既成概念を幾度も反転させる。そのひとつが、作品に開いた口に見られる。

近代以降、陶芸は「美術なのか、工芸なのか」と葛藤してきた歴史がある。ふたつのカテゴリーを分つものは「用途や機能の有無」だと考えられ、器物の口をふさぎ、用途を封じることで、やきものはアートのオブジェとなる、という主張もされた。

対して、西條の多くの作品に開いた口は、金彩で輝きを添えて強調すらされ、内部に覗く暗がりは、作品に謎めいた魅惑を与えている。《惑星》《slow boat》から伸びた管は、パフォーマーがそこから息を吹き込むことで、音を奏でる。「用途」「機能」を持った陶のアート作品だ。

《Waiting Man》(2025)と作家の西條茜。大型作品は、信楽の商業陶器メーカーの窯を借りて制作した 撮影:筆者

陶芸の抱えてきた虚構を反転させる

作品はロクロや型は用いず、すべて手捏ねで作られている。大型の作品は、紐作りを積み上げて成形されている。焼成時に壊れないように、また軽量化のために陶作品の内部は空洞になっていることがつねだが、西條は、やきものの内部が抱えるこの空洞に着目した。

「どんなに表現性が豊かな表面であっても、その内側には空虚な空間が包み隠されている。良い意味でも悪い意味でも、陶磁器というものが、どこか虚構の造形のように思えてきたんです。その表面と空洞のギャップへの関心が私の創作のベースにあるもののひとつです」と、過去のインタビュー(*)で発言している。

ここには、デザインや表面のテクスチャー、釉調に終始していたこれまでの陶表現からのダイナミックな視点と発想の反転がある。さらに、空洞のあるやきものを、西條は人体、内臓のイメージに重ね合わせ、作品に有機的な姿を与えている。やきものを人体になぞらえることは、縄文時代の「出産文土器」のように、太古から人類に共有されてきた感覚でもある。

会場には終始、低い音が響いている。パフォーマンスで作品に吹き込まれた息が内部で反響して起こった音響だ。不穏な音色は、どこかノスタルジックでもあり、耳を澄ますと古代の記憶へと吸い込まれてゆくようだ。

小さな洞窟のような《The Melting Laborers》(2024) 撮影:筆者

人とモノとのコンタクトを生み出す装置

作品は、鑑賞者とのコンタクトを生み出す装置としても機能する。《The melting Laborers》では、洞窟のように開いた複数の穴が内部でつながっている。手を差し入れれば、自分の手が作品内部に触れ、作品は手と出会い、また、複数人で手を入れれば、中で誰かの手が接触する体験があるだろう。(2月16日に、作品に触れられるイベント「ふれあい展示室〜作品からはじまるアレコレ!」を開催予定)

《The Golems》(2025)は、見る側の身体性と作品の一体化を想起させる造形。パフォーマーが、開口部に吸い込まれてゆくようだ 撮影:筆者

映像作品は、作品を使ったパフォーマンスの記録だ。パフォーマーたちは、無表情、ゆっくりした動きで、放心したように作品に寄りかかり、作品の開口部や管に吸い込まれるように顔を埋め、無心に息を吹き込んだり、耳を当てたりしている。あたかも魅入られたような虚脱の様子は「インタラクティブ=双方向的」と呼ぶには違和感がある。むしろ、やきものがパフォーマーたちを誘導し、支配しているようなのだ。ここには「やきものと、その使い手・作り手である人」という、従来的なやきものと人との主従関係の反転が起こっているように見える。

陶芸は、力づくで土を捏ね、泥まみれで形をつくり、窯に運び入れ、最後の焼成では結果を火と熱の化学変化に委ねるしかない。そんな大きな荷重と、制御しきれない火の作用との格闘だ。そのプロセスから、新たに制作されたのが「運搬」という動作を取り入れたパフォーマンス作品だ。

会場風景より、《The Golems》(2025)。重量感のある作品を運搬するパフォーマンスの映像作品 撮影:筆者

ひとりで動かせないほどの重さの作品に向き合うパフォーマーの遅々たる動き、低い姿勢。大きな重量の前に虚脱したように伏せる姿勢は受動的で、諦念に似た気配すら漂う。作品タイトルは《The Golems》。旧約聖書に記される、巨大な人造人間の名だ。

西條は「自分で作ったはずの造形物によって創造者である自分が押し潰される夢をよく見る」と言う。土に触れ、逆に作品からも触れられる。新しい表現を切り開こうとするたびに制御しきれない不自由さに接し重圧に直面し、そのポイントから自身の立ち位置をフィードバックさせられる。「ダブル・タッチ」は、陶芸という領域で自身の創造のイメージと身体感覚を探索する西條自身の営みを喩える言葉でもあるだろう。

西條の仕事は、陶芸の世界が長年抱えていた空洞を撃ち、概念の反転をしてのけた。昨今、アートと陶芸の接点はかつてないほど多くなっているが、陶芸の外部から表層的にやきものという素材をピックアップするアート作品とは、真逆のアプローチであることを、蛇足ながら確認しておきたい。

スケールアップした作品群に目が奪われるが、その傍ら、アトリエで制作された小品のシリーズ《卓上の幽霊》は、西條が日常に注いだ視点が伺え、見ていて飽きない。初めて挑戦したガラス作品は、自ら息を吹き込むという工程を経た、これも身体性の強い作品で、生々しい。

小品のシリーズ《卓上の幽霊》(2025)は、アトリエで制作され、日常に注いだ視点が生かされている 撮影:筆者
初めて挑戦した吹きガラス作品《Mist fruits》(2025)は、自ら息を吹き込むという工程を経た、これも身体性の強い作品だ。心臓の形を模している 撮影:筆者
《卓上の幽霊》(2025)。日用品や、身体の一部をイメージさせるオブジェ 撮影:筆者

*──ARTnews JAPANのインタビュー(https://artnewsjapan.com/article/1578)より

沢田眉香子

沢田眉香子

さわだ・みかこ 京都拠点の著述業・編集者。アート・工芸から生活文化までノンジャンル。近著にバイリンガルの『WASHOKU 世界に教えたい日本のごはん』(淡交社)。
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