愛知県で7月30日〜10月10日に開催される国際芸術祭「あいち2022」。会場は主に、愛知芸術文化センター、一宮市、常滑市、有松地区(名古屋市)の4ヶ所だ。
2010年から3年ごとに開催された「あいちトリエンナーレ」を引き継ぐかたちで、今回新たな芸術祭として幕を開ける。現代美術、パフォーミングアーツ、ラーニング・プログラムなど、ジャンルを横断して展開するのが大きな特徴で、現代美術展には32の国と地域から82組が参加。パフォーミングアーツ、ラーニング・プログラムと合わせると参加アーティストは約100組に及ぶ。芸術祭が各地で多数開催される今年にあって、ひときわ大規模な国際展だと言える。
29日には、開幕に先駆けて報道むけの記者会見と内覧会を実施。本稿では、記者会見の様子と愛知芸術文化センターの展示について速報する。
そのほか各会場レポートは以下より。
【常滑市】レポート
【一宮市】レポート
【有松地区】レポート
記者会見には、国際芸術祭「あいち」組織委員会会長の大林剛郎や、芸術監督・片岡真実らが登壇した。
本展のテーマは「STILL ALIVE 今、を生き抜くアートのちから」。片岡によると、新型コロナウイルスのパンデミックという未曾有の事態は、「生きる」ことをアートを通して考えるという本展の大きなテーマを方向付ける出来事だった。「私自身がこの時代にどのように生きることができるのか、そのためにアートは何ができるのかを見たかった」と片岡は語る。
本テーマは愛知県出身のコンセプチュアル・アーティストである河原温の「I Am Still Alive」シリーズから着想を得ており、コンセプチュアル・アートの源流をたどるということも、本展の見どころのひとつとなっている。さらに複数のモダニズム、伝統工芸や先住民の芸術表現、メンタルヘルスと祈り、身体とパフォーミングアーツ、言葉と記号といったものが、本展が着目するキーワードとして挙げられた。
「これさえ見ておけばいいという見どころはとくになくて、それぞれ本当に力のある作品をご用意しました。ぜひ頑張って網羅していただきたいと思います」。そんな片岡の言葉に期待が高まる。
それでは早速、愛知芸術文化センターの10階から展示を見ていこう。
20世紀に活躍したベルギーのアーティスト、マルセル・ブロータースの作品がある小部屋を経て、河原温の展示室からスタート。コンセプチュアル・アートへの注目という本展の意図を感じる構成だ。
河原温の《I Am Still Alive》シリーズ(1970‐2000)は、作家が知人・キュレーターらに「I AM STILL ALIVE(いまだ生きている)」というメッセージだけを記して電報を送った作品。展示ケースのなかには、その膨大な電報が並べられている。ある行為を定期的に繰り返す手法は河原の代表的なものだが、「いまだ生きている」というメッセージは、コロナ禍のいま、また新たな感覚を持って鑑賞者に訴えかけるものがあるのではないだろうか。
1978年生まれのアーティスト、奥村雄樹の展示が続く。奥村は河原温から大きな影響を受け、自身の作品においてもたびたび言及してきた作家だ。出展作《彼方の男》(2019)もそのひとつ。また広い展示室に様々な物が配置された《7,502,733》(2021–2022)も、コンセプチュアル・アートを自己言及的に扱う作品。1969年にシアトルで開催された展覧会「557,087」から、コンセプチュアル・アートと定義されうる30点を選び、そのすべての制作手順を自ら再演した。
続く展示室からは、「言葉と記号」に関する気づきを与えてくれる作品が並ぶ。たとえば1964年に渡米しフルクサスに参加した塩見允枝子の「スペイシャル・ポエム」シリーズ。福島を拠点にする詩人の和合亮一が、2011年の東日本大震災の直後からTwitterに投稿し続けた一連の詩。
ペルー生まれ、現在はメキシコを拠点とするリタ・ポンセ・デ・レオンは、5つの新作を製作した。《人生よ、ここに来たれ》は鑑賞者が触って動かすことができる作品で、中南米で雨乞いの儀式に用いられる擬音楽器レインスティックがもと。シャラララ……という心地よい音が流れる筒状の表面には、3名の協力者の人生の節目を表す単語が書かれている。楽器のマリンバのような《魂は夢を見ている》も、言葉と音楽がともに響き合うような作品だ。
時間の概念や認識について探究してきたの映像と音による作品を経て、次の広い展示室へ。中央に佇む、半透明の薄い膜で覆われた矩形の空間が目を引く。
サンパウロを拠点とする日系三世のブラジル人であるアンドレ・コマツによる作品で、タイトルは《失語症》(2022)。言葉や音で雄弁に語りかけてくる作品が続いた後だけに、このコントラストにははっとさせられる。迷路のような空間にメガホンやハンマーなどが配置されていることから、街頭デモやストライキを想起させ、社会的な問題への言及を感じさせるとともに、「1950年代以降、ユートピア的モダニズムの理想として推進されてきたブラジルの構成主義の美学を、美術と建築の両方で継承している」とキャプションで説明がある通り、美学的な観点からも注目すべき作品だ。
さらに、カズ・オオシロ、ファニー・サニンという、「絵画」という概念や形式について考えさせる作品も展示されている同展示室。ここは「世界各地でパラレルに発展したモダニズムの系譜、絵画や彫刻の概念を再訪し、それぞれの文脈にある社会的、経済的、政治的な歴史を現在という地点から考える」(記者会見より)ような展示になっている。
「身体」をめぐるイメージも、本展の大きなポイント。カデール・アティアの映像作品《記憶を映して》(2016)は、幻肢痛をテーマに扱う。ホダー・アフシャール《リメイン》(2018)は、パプア・ニューギニアのマヌス島の美しい風景に、難民をめぐる過酷な状況について言及する作品だ。
向かいの展示室には、声によるパフォーマンスを行う足立智美のインスタレーション。またこれらの展示室をつなぐ空間には、ジミー・ロベールによる写真と彫刻、パフォーマンスを織り交ぜるような作品群が展示されている。低い台に置かれた写真の身体イメージは、ステージで踊るダンサーの身体のようでもある。
パフォーミングアーツ部門のキュレーター相馬千秋は記者会見で、本展は「パフォーマンスと展示が相互に響き合う、領域横断的な展開」を行なっていると説明した。ジミー・ロベールなどはまさに、展示のなかにパフォーミングアーツのエッセンスが含まれた好例だ。過去の「あいちトリエンナーレ」でもパフォーミングアーツの領域が存在感を持ち、現代美術展と共存していたが、その傾向はこの「あいち2022」にも引き継がれたと言えるだろう。
8階の展示室でも、身体を主題にした作品やパフォーミングアーツとの横断的な作品の展示が多数見られる。
フェミニズムやクィア理論を参照した作品を手がけてきたケイト・クーパーの新作《無題(ソマティック・エイリアシングに倣って)》は、リアル/ヴァーチャルを往還しながら身体的な体験に肉薄する映像。
展示室に建具を用いた空間を用意し、そこでパフォーマンスを行うのは、ニューヨークを拠点に活動する笹本晃。《リスの手法:境界線の幅》は、境界線で区切られたテリトリーをモチーフに、人間のコミュニケーションや身体の移動に関する制限に言及。コロナ禍において切実なテーマだ。
百瀬文の《Jokanaan》(2019)も、身体やコミュニケーションに関する鑑賞者の認知を揺さぶる批評的な作品。2面スクリーンに移された男性と女性は、あたかも新約聖書をもとにした戯曲に登場し、「生/性」をかけたドラマティックなやりとりを繰り広げるヨカナーンとサロメのよう。しかしじつは、女性は男性の動きをモーション・キャプチャーでデータ化しつくられたCG映像なのだ。いわば同一人物のような存在なのに、ふたりのあいだに特別なコミュニケーションが生じているように見えてしまうのは、いったいなぜだろう。「男と女」だからか。それとも……?
本会場でひときわ印象深かったのが、コロンビア出身のリリアナ・アングロ・コルテスの展示だ。鮮やかな黄色と緑の布が目を引くが、よく見ると展示室に張り巡らされた紐のようなものは、編まれた頭髪なのだ。《Still Hair:アフリカ系住民のコミュニティでの髪型とケアの実践の伝統に関する共同プロジェクト》は、髪の編み込み文化の伝統を扱ったもの。これはアフリカからアメリカ大陸へ奴隷として連行された人々が持ち込んだ、抵抗のための知識や、コミュニケーションの手段であったという。
もうひとつ、黒人たちによる「ブラックパワー・ムーブメント」の思想を示す作品として、《パシフィック・タイム/民衆が諦めたりするものか!》を出展。これは、アフリカ系コロンビア人とコロンビアの先住民のあいだの歴史的闘争や、アメリカ大陸における不平等に対する闘いに触発されて制作されたものだ。
愛知県出身のコンセプチュアル・アーティストである荒川修作と、パートナーのマドリン・ギンズによるプロジェクト《問われているプロセス/天命反転の橋》(1973–1989)。本展ではこの模型が展示されるとともに、日時指定でVR作品を見ることができる。
そして今回見逃せないのは、高校の先輩である荒川修作とも交流し、ネオダダに参加するなど、戦後の前衛シーンで活動した岸本清子の展示である。「地獄からの死者」を名乗った岸本は、逆三角を自らのシンボルマークに、ピラミッド型の男性優位社会に反旗を翻し、人々の苦悩を自ら引き受け、社会を変革しようとした芸術家だ。故郷・愛知県に帰った1980年代以降は、巨大な絵巻物のような絵画作品を制作するようになり、囚われたゴリラの解放を描いた《ホワイトマウンテンゴリラ》(1981)もそのひとつ。重要なのは、こうした大型の絵はただ絵画作品として完結的に描かれたのではなく、自ら行うパフォーマンスの舞台装置、もしくはその考えを図示するような役割を持っていたということだ。
1983年、岸本はなんと参議院選挙に立候補もしている。このときの政権放送の様子も本展で見ることができるが、力強いその口上にも、岸本のパフォーマンスの先鋭性を見てとることができる。その姿は一見エキセントリックに映るが、様々な不平等が温存され社会に歪さをもたらしているいるいまこそ、彼女が全身全霊で発したメッセージと真面目に向き合うべきだろう。
本展はパフォーミングアーツ領域としてVRを用いた作品がいくつか出展されているが、ローリー・アンダーソン&黄心健(ホアン・シンチェン)の《トゥー・ザ・ムーン》(2019)もそのひとつ。ヘッドセットを装着すれば、月面を飛行するような臨場感あふれる体験ができる。その映像の美しさを味わうとともに、人類が長年育んできた宇宙への憧れや希望、そして地球を離れた宇宙空間でまでも領土争いをするような愚かさにも思いを馳せずにおれない。
身体に関わる作品として最後に、ミルク倉庫+ココナッツの《魂の錬成》を紹介したい。本作は、8階から12階を貫く吹き抜け空間に足場を組んだインスタレーションで、この中を鑑賞者は歩いて移動することができる。作家は本作において、芸術文化センターの建物自体を呼吸器官に見立て、この吹き抜けを肺とする。建物屋上で取り込まれた雨水を作品内で濾過しながら循環させることで、まさにこの建物自体を「生きた身体」として立ち上がらせるのだ。
また8階にはラーニングルームがあり、眞島竜男による巨大壁画、愛知県の例祭をモチーフにした山本高之と猩々コレクティブ、在日ミャンマー人の人々との出会いから制作した徳重道朗など、「愛知と世界を知るためのリサーチ」から生まれた刺激的な作品が並ぶ。
最後には椅子が置かれたオープンスペースがあり、キュレーター(ラーニング)の山本高之は、ここで思う存分「チル」していいと笑う。疲れた足腰を休めてくつろぎながら、ただぼうっとするもよし。展示を見て感じたことを反芻してみたり、周囲の人と感想や意見をアウトプットし合うのもいいだろう。
ここで触れられなかった作品も多いが、「あいち2022」のテーマが際立つかたちで構成された愛知芸術文化センター。ぜひゆっくり時間を取ってまわってほしい。
*4会場ごとにレポートを公開
【常滑市】レポート
【一宮市】レポート
【有松地区】レポート
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)