*特集「AI時代のアート」のほかの記事はこちら(随時更新)
いま、AIがめざましい発展を遂げている。その代表格とされる対話型AI・ChatGPTのほか、Stable DiffusionやDALL・E2、Midjourneyといった画像生成型が一般公開された2022年、まさに生成AI元年を迎えた。それから1年足らずで、AIは私たちの生活や価値観を否応なく変容させつつある。もちろん生成AIの精度や著作権の問題など、まだまだ議論の余地があるのは一目瞭然だ。それでもなお注目せずにはいられないのも、ひとえに秒進分歩で進化するその勢いや新しい視点の提示に未知の可能性を感じるからではないだろうか。とくにAIによる画像生成は、クリエイティブの分野においてすでに多くの問いをもたらしている。
2023年の春、国際的な写真賞・Sony World Photography Awardsを巡るニュースが世界中で報じられた。写真作品が審美されるこの国際的なコンテストにおいて、生成AIによって作られた作品がクリエイティブ部門の最優秀賞に選ばれてしまったのである。写真分野のキュレーターやギャラリスト、写真編集者らによって構成された審査員によるその選出が果たして意図したものだったのか、あるいはそれがAI生成画像だとは気づかなかったのか──。いずれにせよ、AI生成画像は写真であると業界の専門家らによって直々に認められるばかりか、人間が手がけたものよりも優れているという可能性さえも獲得してしまった。
作者に当たるボリス・エルダグセンは最終的に受賞を辞退。その理由として、あくまでも主催側にAI生成画像を受け入れる準備ができているかどうかを試すことが目的だったに過ぎず、AIは写真ではないから、とのことだった。しかしそうした彼の意図とは裏腹に、この一件は写真とAI生成画像の境界線がいまどれだけ曖昧になりつつあるかを見せつけ、結果的に「写真とはなにか」という疑問を投げかける騒動となった。このように、AI生成画像が写真のクオリティに近づいていくことで、写真の世界はいよいよ混迷を極め始めたと言える。
エルダグセンの受賞と辞退をきっかけに、世界中の写真イベントで生成AIを巡る議論が活発化している。アートマーケットもその例外ではない。世界最大のフォトフェア、パリフォトは26年目の開催となる2023年、ギャラリーセクションに史上初めてデジタル部門を設立し、制作手段に生成AIを駆使した作品群が大いに紹介されたのである。
パリフォトと言えば、少なくともいまから半世紀以上前に制作されたビンテージの銀塩プリントがいまなお根強い人気を誇るフェアなだけに、これは思い切った決断だ。そのデジタル部門は9つのギャラリーで構成されたが、うち8つは今回が初出展であることからも、マーケットの新境地を開拓しようという主催側の意欲的な姿勢が伝わってくる。
パリフォトのデジタル部門では、前述のエルダグセンによる作品群も陳列されて注目を浴びていたが、そのほかにも効果的に生成AIを駆使した作品群が見られた。以下、別作家らによる作品群を2組ほど紹介したい。
まずはドイツ出身のマリオ・クリンゲマンによる「Teratoma」(奇形腫)シリーズ。第一印象ではシュルレアリスムのコラージュワークを想起させるが、実際はカメラや暗室ではなくニューラルネットワークを通過して生まれたイメージだ。長年にわたって作家自身が集めたポートレート写真のクローズアップや、インターネット上から収集した画像などによってトレーニングされたAIモデルが使用された。そのいっぽうで、人間の身体構造についてはあえて何も学ばせないことによって、アメーバのように定形を持たない独特な人間像が出力された。
その不気味さにどこか既視感があるとすれば、Deep Dreamではないだろうか。Googleが2015年に発表した画像解析AIソフトウェアであるそれは、イメージの細部をなんでもかんでも犬の顔や眼に置き換えて認識してまうことから、悪夢のようなイメージを生み出すことで話題を呼んだ。その理由としてもやはり、ネットワークのデータセットが犬に偏っていたことが指摘されてきた。とにかくクリンゲマンは、データベースひとつで人間の固定概念をいともたやすく覆してしまうAIの発想に魅了されたようだ。かくして彼がAIでアートを生成し始めたのは2017年、つまり生成AI元年を迎えることになる2022年よりもずっと前のことだった。その先見の明から、AIアートのパイオニアと称されるひとりである。
パリで活動するデジタルクリエイティブスタジオのu2p050は、名だたる政治家や実業家らが自身とキスするイメージを幾重にも増殖させたシリーズ「Smack dat」をパリフォトの壁に飾った。ジョージ・W・ブッシュとイラク戦争、ヒラリー・クリントンとピザゲートといったように、政治家に関与した出来事がいかにも生成AIの仕業らしく露骨に増殖しながら絡み合う。フェイクニュースが絶えないポスト・トゥルースの時代に対して疑問を投げかけるこれら偶像もやはり、生成AIによって生み出されたものだ。
彼らの作品から連想できるものとして、とあるグラフィティが挙げられる。1979年、旧ソ連のレオニード・ブレジネフと旧東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカーがドイツ建国30周年の記念式典で交わしたキスの場面が、「神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え」というフレーズと共にベルリンの壁に描かれたものだ。
しかしそれと本作に決定的な違いがあるとすれば、他者ではなく自身とのキスが描かれている点である。イーロン・マスクを描いた1枚に着目するなら、昨今の米・Twitter買収を巡る彼の気ままな言動はまるでスマートフォンを鏡に見立てて自己愛を育むようでもあり、あるいは水鏡に映る自分自身に惚れ込んだギリシア神話のナルキッソスを彷彿させる。現代の権力者のエゴとナルシシズムに翻弄されることへの悲観と苛立ちを、生成AIならではの反復・増殖行為で露悪に表すことに成功している。
かくして生成AIにもパリフォトの門戸が開かれたいっぽうで、従来のギャラリー部門では「これこそが写真だ」と言わんばかりに、写真の物質性を強調させた作品群が目立った。そしてその分野では、日本人が一歩先を行く。
山本昌男による和紙に焼かれた花鳥風月の写真群は、いかにもフランス人のエキゾチシズムをくすぐる一品としていまやパリフォトの名物となっている。新井卓によるダゲレオタイプの作品は、イメージサイズよりも二回り近く大きい銀板が使われたことで、まるで鏡のように鑑賞者の半身をも写し込むことから訪問客の注目を集めていた。和紙にサイアノタイプを用いた技法を採用する堀江美佳の作品は、パリフォトのオフィシャルパートナーを務めるJ.P. Morgan Private Bankに収蔵され、今回のパリフォトでは彼らの特設ブースに堂々飾られた。
写真が備える「理論上無限に複製可能」という素晴らしい特性も、作品としての唯一性を考える時は短所になりがちだ。さらに絵画ではマチエール次第でテクスチャーを出せるが、写真は紙に焼いても平坦なままである。また、印刷技術が向上した現在は一般的に写真プリントと印刷物の区別もだいぶつきにくくなった。そうしたなかで、写真を表現媒体として扱う現在の写真家たちが説得力ある一品物を仕上げるためにも、たんなる紙とも異なる媒体を採用することで写真の物質性を意識し始めたのは自然な成り行きだったのだろう。
日本で言えば、いまから10年ほど前に写真家・横田大輔が頭角を表したことがその分水嶺になったように思う。横田以降、従来のように写真に写り込んだ事物やテーマを掘り下げることではなく、写真の物質性をことさら意識する作品が急激に増えたのだ。その傾向は今後、写真の定義があやふやになればなるほど強まり、そして多様化していくと考えられる。
そもそも写真の歴史というのは、たった200年足らずでその原点まで遡れる。1839年にフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが考案したダゲレオタイプは、銀板にヨウ素蒸気を当てることでヨウ化銀を生成させたものを感光材料にした。イメージ部分が空気に触れ続けると化学反応で損傷してしまうほど繊細であることから、制作後はケースへの収納が求められた。
そんなダゲレオタイプの見た目はさながら手のひらサイズの額装作品といったところで、その圧倒的な質量は他に代えがたい独特の魅力である。筆者はダゲレオタイプやアンブロタイプの当時物を所有しているが、それらのケースを開くたびに慄いてしまう。はるか昔に撮られたとは思えないほど見事なその解像度とは反対に、その像はじつにおぼろげで、いまにも消えてしまいそうな儚さがある。そのことから、まるで亡霊とでも対面したかのような、不思議なリアリティが感じられるからだ。
さらに言うなら、記念写真特有の決められたポージングの中にもちょっとした表情や姿勢の崩れ、あるいは服のよれなどが確かめられ、そうしたリアルな細部が不意にこちらを突き刺してくる。かのロラン・バルトは、写真の些細な細部が鑑賞者を突き刺して離そうとしない魅力をプンクトゥムと名づけたが、その正体とは圧倒的なリアリティなのではないかと思えてならない。ダゲレオタイプのように、亡霊のような写真のありようと向き合えば向き合うほど、その実体とは質量のないリアリティを指し、それこそ私たちが写真と呼ぶ正体なのではないかと考えずにはいられなくなるのである。
振り返ればいまから20年ほど前、デジタルカメラが普及し始めたことで、いよいよフィルムの物質性すら、写真の絶対条件ではなくなった。当時こそ、デジタルデータになったそれを果たして写真と呼べるのか?という論争が各所で繰り広げられたものだが、そうした議論をよそに、デジカメが市場に現れてから今日に至るまでの間にフィルムはすっかり衰退してしまった。質量のないデータになっても、写真は写真として認められたということだろう。
もっとも、写真に初めて質量が与えられたのはダゲレオタイプだったが、それよりはるか昔の古代ギリシャ時代から存在し、後にカメラの語源にもなった装置としてカメラ・オブスクラが挙げられる。それはピンホールが空いた暗箱で、外の風景を内側に投影させるものだった。すべての始まりからして、写真には質量がなかったのだ。このように、写真とは質量を持つメディアとして捉えられがちだが、本来は掴みどころのないゴーストのような存在だと言える。
一時はマーケットシェアを制覇したデジカメではあったが、その勢いも長くは続かなかった。次いで現れたiPhoneを筆頭とするスマートフォンによって引導が渡され、写真はついに真の輝きを得ることになる。Instagramなどの写真投稿をメインとしたSNSが登場すると、自分が見たものや体験したことのリアリティを共有するうえで、写真ほど手軽で説得力があるものもなく、そのためのデバイスとしてスマートフォンはうってつけだ。写真とはまさにそのために生まれたのではないかと思えるほど、抜群の親和性を見せた。
その結果、写真はスマートフォンの画面でサムネイルサイズで愛でられるようになった。インスタ映えという言葉が象徴するように、虹色に輝く小さな宝石よろしく鮮やかな色調に仕上げられたサムネイルサイズの写真が、SNSのタイムラインを埋め尽くした。ついでに言うなら、使い道のなかった写真をSNSに投稿することを「成仏させる」と言うように、今日のSNSは写真という名の亡霊の墓場としても奇妙に機能している。
SNSの発展によって、写真の愛でられ方が変容すると、デバイスもそれに合わせて最適化を始めた。iPhone13に搭載されたA15 Bionicはその最たるものだ。AI主導の演算能力で写真の表現力を高めるコンピューテーショナルフォトグラフィーを深化させた結果、過剰な色乗りと輪郭強調を自動で施すようになったのである。写真が写実を捨て、「映え」を選んだ瞬間だ。細部の描写にしても同じことが言える。スマホ画面上でのサムネイル鑑賞の見映えが優先された結果、写真の細部は切り捨てられ、いまや解像度では語れない次元に突入している。それはどちらかといえば、絵画の筆致に近いタッチだ。
そうした変化と同時並行する形で、昨今のSNSでは「#アニメのワンシーンのように」というタグが添えられた、フラットかつ高い彩度に仕上げられた風景写真をしばしば見かけるようになった。鑑賞者の感情に訴えかけてくる点で「エモい」とも言い換えられるそれらは、主に新海誠監督によるアニメ作品のリアルな背景画に触発されて作られた写真群である。元はといえば現実の風景を再現すべく緻密に模写されたアニメの背景が、今度は写真の参考にされるというのも興味深い。言ってみれば、百余年を超えて復興するニューピクトリアリズム時代とも言え、そうした観点からも写真と絵画の境目はますます曖昧になりつつある。
フィルムで撮って銀塩プリントに仕上げない限り、あるいはデジタルだとしても現実世界の光をカメラでとらえない限り、それを写真とは呼びたくない人はまだまだ多いことだろう。そのいっぽうで、時代ごとの技術革新に合わせて姿形を変えてきた写真の気軽さに着目するなら、ロラン・バルトが言ったプンクトゥムならぬ細部に宿るリアリティこそ「写真とはなにか」という問いに対するひとつの答えに思えてならない。何を、そしてどこをリアルだと感じ取るかによって、時には写真ならざるものでさえ写真と感じられることがあるわけだから。
たとえば昨今、グラフィックが劇的に向上し、不特定多数のプレイヤーとのマルチプレイが一般的になったゲームの世界ではバーチャルフォトグラフィーが盛んになっている。仮想空間ならではの世界観を写真に残すべく、被写体となる対象物の配置や撮影角度などを入念に計算した上でそれは実践されるが、そのじつは画面のスクリーンショットに過ぎない。もはや写真にカメラもレンズも求められない世界だ。しかしゲーム内でのフォトモードが本格化し、ズーミングや被写界深度、フィルターの選択など細部にわたる撮影設定が仮想的に組み込まれたことで、スクリーンショットは撮影行為としての市民権を獲得し、写真の一種として取り扱われるようになった。
ほかにも仮想キャラクターを自身のアバターとして活用するバーチャルYouTuber、通称VTuberによるオンラインライブ配信では、ポージングした彼らを視聴者たちが画面越しにスクショすることを撮影会と呼ぶように、たとえバーチャル空間だとしても、そこに芽生えたリアルをイメージとして記録する行為は撮影行為と受け止められ、その成果物は写真として認識されるのが今日のありようだ。
写真の現像処理アプリとして定評があるPhotoshopは昨年、クリエイティブワークフローに生成AIを本格導入した。いまや写真は絵画の感覚で気軽かつ自然に描けるようになったのだ。このように、私たちの現実は様々な側面から日々拡張されており、ひいては写真を巡るリアリティも拡大しつつある。
もちろん写真を撮る行為に最大限の敬意を払うなら、AI生成画像はまるで異なる次元の成果物ではある。しかし写真を見る立場から考える限り、写真とAI生成画像の区別がつかなくなるのも時間の問題だろう。iPhoneが選んだ「映え」や筆致表現、そして現代写真の絵画回帰といった点からも確かめられるように、写真がピクチュアに収束されつつあるいま、それが写真か絵画かを問うこと自体がもはや無意味になろうとしている。
AIが叩き出すイメージは、私たちが慣れ親しんだ自然法則に則っていないことも少なくなく、そうした点でまだまだグロテスクに感じられがちだ。しかしこの現実が今後さらに拡張されることによって、リアルを見定める基準そのものが変容するとしたら──。
2023年10月、米・METAが世界初の一般向け複合現実ヘッドセット「Meta Quest 3」を発売した。仮想オブジェクトのホログラムをヘッドセット内ディスプレイに投影することで、ゴーグル越しの現実空間上に可視化するという複合現実を実現させたものだ。さらに来年には、Appleから初の空間コンピュータとして複合現実ヘッドセットが発売される。現実とバーチャルがシームレスに融合する拡張現実は、もう目前まで迫ってきている。
その頃、私たちの現実は自然法則を超越して別の広がりを見せていることだろう。そしてある日ふと気づかされるのだ、AIが生み出すイメージのいびつな細部からもプンクトゥムが感じ取れるようになっていることに。
下記、本稿における作品図版提供作家のX(旧Twitter)のアカウントリンクを挙げる。
*1──MASA、Laviy
*2──Akine Coco
*3──IchiZo
*4──Kemo
*5──Ken Tanahashi
トモ・コスガ
トモ・コスガ