公開日:2007年6月29日

裸の疎外感 – 山口理一さんとのインタビュー

山口理一さんの初の個展、『A Sense of De・tach・ment』が現在東京画廊で開催中。疎外感や身体性がテーマである彼の写真は、非日常と日常が絡み合い、不思議な世界観を生み出します。山口さんに今回の個展や作品作りなどについてお話を伺いました。

「040403」
「040403」
写真提供:東京画廊

まず、今回の『A Sense of De・tach・ment』について教えてください。

おおまかに言うと、テーマは自己と他者です。コミュニケーションの技術が発達することにより、社会的な希薄感というか、人間同士がどんどん離れていっているというのを、わざと逆説的に「裸」という方法で表現しています。本来、人っていうのは社会的な動物なので、繋がっていたいという気持ちは常にあると思うんです。テクノロジーは本来それを補うために発達しているのに、実際はそれによって人は離れていってしまっている。

例えば第10回岡本太郎現代美術賞にノミネートされた作品はタイル状になっているのですが、これは近代の合理化社会のメタファーを意識して分割しようと思い立ったんです。表面にそういう計算された部分、そしてその背後に抑圧された感情や人間性がなんとなく漂っている。ただ乱雑に絡み合っているかのように見える裸体ですが、実は手だけは隣の人にそっと添えていたりすることによって、「繋がりたい」という気持ちを表しています。 

1991年に渡米して以来、ニューヨークでの生活が長いようですね。外国に移住し、そこで体験した苦難なども作品に反映されているのでしょうか?

そうですね。アメリカは本当に個人主義ですし、日本みたいに「なんとなく」が通用しない。「自分」と「他人」というのがすごくハッキリとしている。そのうえ英語がしゃべれなかったので、すごく距離を感じた時期がありました。そういったものが反映されていると思います。でも日本でもアメリカでも同じテーマに沿って作品作りをしているし、両方とも大都市なので、常に疎外感みたいなのは感じています。例えば僕の作品では裸の人の顔がよく見えなかったりするのですが、それは大都市の匿名性みたいなのを表しています。例えば、何人もの裸体が立っている作品がこのシリーズで初めて撮った写真なのですが、あれは通勤途中の満員電車の中で、「この人たちが裸だったら…」とふと思ったのがきっかけです。日本ほど酷くないにしてもニューヨークも朝のラッシュは結構混雑していて、やはりみな暗い顔をして立ってる。その、ある意味不自然な至近距離を裸で表したら面白いんじゃないか、と思ったんです。

「110101」
「110101」
写真提供:東京画廊
「090105」
「090105」
写真提供:東京画廊

撮影作業について教えてください。モデルなど大勢いて、大変そうですが…

大変です (笑)。撮影はいつも3時間くらいで、一度に2、3カット撮るのですが、撮影に入る前に入念に下準備をしたり、プランを立てます。使っている大型カメラのフィルムが高くてあまりむやみに何枚も撮れないのと、モデルの人数も多かったりするので、スケッチをして構成を考えてから撮影に向かいます。密に絡み合っている状況を、人間の体を使って作っているのですが、やはり私一人では手に負えないので立体的な表現に長けている彫刻家の友人などに助けてもらっています。あと、写真で見ると普通に見えますが、実際人が2、3人積み重なっていると下にいる人間は押しつぶされるわけです。「痛い!」とか言って。こっちとしてはもう少し腕を曲げて欲しいとか、いろいろ要望はあるのですが、そういう状況だとなかなか頼みにくいですね。それと、「ジェンダー」に関する作品では無いので、性器はできるだけ隠すようにしています。そういう物理的なことがけっこう面倒で、「なんでこんな大変なことをしてるんだろう…」とふと思うこともあります(笑)。

「040320」
「040320」
写真提供:東京画廊

ところで登場人物のモデルは誰なんですか?

モデルはボランティアの方です。ニューヨークの街にボランティア募集のフライヤーを貼って、インタビューをします。絡み合った状況を考えて、一応募集要項に「痩せ型の人」と書くんですが、時々80キロくらいの大柄な人も来るので、そういう人は下の方に入ってボリュームを出してもらいます。ちなみになぜかラテン系の人が多いです。今回の個展に神奈川県のとある日本家屋で撮影した写真があるのですが、日本ではなかなかモデル探しがうまくいかず、結局集まった大半は外国人でしたね。日本語のウェブサイトに募集要項を載せると、やはり「裸」とか書いているので怪しい者と勘違いされ、次の日には消されたりしてるんです。

「050603」
「050603」
写真提供:東京画廊
撮影はスタジオが多いんですか? また、白い紙でできたオブジェは何を表しているのでしょうか?

カラーか白黒によって違います。基本的に白黒の作品は抽象的なので、スタジオを使います(と言っても自分の家だったりするんですが)。逆にカラーは日常性、特に日常生活の風景を取り入れて、非日常とのギャップを表しているので、こちらは知り合いの家などで撮影する場合が多いですね。ちなみにライティングは、なるべく自然光で撮影しているので、全体的に暗い感じがするかもしれません。オブジェに関してですが、今回、精神的不安をテーマにしているうえで、特にカラーの作品では、非現実と現実の狭間をさ迷うというメタファーとして白い紙でできたオブジェ(船など)を使いました。普通の家の中にある日常と、ありえないような非日常的な風景が重なり合った中での境界線を表しているつもりです。

写真家のスペンサー・チュニックも同じように大勢の裸体を使った作品を発表していますよね。

そうですね、でもスペンサー・チュニックの場合は、野外で、いわばイベント的な撮影スタイルです。実は私が使うモデルで、「スペンサー・チュニックの作品にも出てるよ!」という人も中にはいるんです。あれだけの人数をうまく誘導するのはすごいと思います。私の作品との違いは何かと言うと、彼の場合は人間の体を別の視点、かたちで「きれい」に見せたいという意図があると思うんです。でも、私が表したいのは、日常的/非日常的、きれい/気持ち悪い、有機質/無機質みたいな両極端の概念を共存させたい。最初に見ると、一瞬戸惑うような、そんな感じ。でも決して汚いものは一切見せていなくて、モデルでも、体系や肌の色ができるだけ「ニュートラル」に近い人を探します。ニュートラルだけど、違和感がある、そんな感じです。

オープニングパーティで行われた舞踏のパフォーマンス
オープニングパーティで行われた舞踏のパフォーマンス
写真提供:東京画廊

オープニング・パーティーでは舞踏家の金野泰史のパフォーマンスがありましたが、これはどのようにして企画されたんですか?

以前金野さんのパフォーマンスを拝見したことがあったのですが、すごく動きがダイナミックで、何か一緒にコラボレーションができないかと考えていました。それで、東京画廊が去年の終わりからオープニングにイベントを組み込んでいるということで、今回は金野さんにお願いしました。今野さんが作品から飛び出てきた人物として、死から生へ、そして再び死へという肉体の流れみたいなのを表現しています。最初は裸で踊って欲しかったのですが、やはり真っ裸だと生々しすぎるので、銀写真から出てきたという意も込めて銀塗りをしてもらいました。残念ながら当日は人が多くて私自身は実際パフォーマンスを見れなかったのですが…。ちなみに今野さんには写真の構成なんかも手伝ったりしてもらっています。

今後の予定は?

最近、舞踏などから影響を受けたこともあり、白塗りをしたモデルなどを使った作品作りをしています。今後もこの「疎外感」というテーマを追求していきますが、序所に実験的な要素を取り込んでみようかと思っています。

山口理一さん、どうもありがとうございました。

Lena Oishi

Lena Oishi

日本生まれ、イギリス+オーストラリア育ち。大学院では映画論を勉強。現在はVICEマガジンやアート/メディア関連の翻訳をはじめ、『メトロノーム11号—何をなすべきか?東京』(2007年、精興社)の日本語監修など、フリーランスで翻訳関連の仕事をしている。真っ暗闇の中、アイスクリームを食べながら目が充血するまで映画を観るのが好き。