東京都現代美術館では8月3日から「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」が開催中。会期は11月10日まで。本展は、質量ともに日本最大級の現代アートコレクションのひとつ「高橋龍太郎コレクション」の代表作を総覧することができる、同コレクションの集大成的な展覧会だ。
本展の最大のみどころは、日本を代表するアーティストの作品をこれまでにない規模の大きさで見られるところにある。参加アーティストは、草間彌生、横尾忠則、森山大道、菅木志雄、空山基、舟越桂、奈良美智、村上隆、会田誠、山口晃、塩田千春、名和晃平、今井俊介、今津景、梅津庸一、森靖、梅沢和木、谷保玲奈、水戸部七絵、山中雪乃、Chim↑Pom from Smappa!Group、SIDE CORE/EVERYDAY HOLIDAY SQUADなど、有名アーティストからいまをかける新進気鋭のアーティストまで総勢115組(うち3作家は東京都現代美術館蔵)のアーティストの代表作が集結した。
本展の担当学芸員である藪前知子は「高橋龍太郎コレクションと、東京都現代美術館は同時期に形成が開始されたコレクションであり、両者は双子のような関係にある。高橋の眼から見た現代アート史を展示することによって、同館が過去30年間で提示してきたアートの系譜にひとつ新しい視点を加えることができるのではないかという思いが、今回の『現代美術私観』というタイトルを付けるきっかけとなった」と語った。
本展の第1章「胎内記憶」では、高橋が青年期に大きな影響を受けたアーティストである草間彌生や、赤瀬川原平、合田佐和子、横尾忠則らの作品が展示されている。本セクションでは、アングラ演劇や文学、サブカルチャーなどが渾然一体となった、これまで美術館が拾いきれていなかった美術史の流れが数多く紹介されており、高橋龍太郎コレクションの収集範囲の広さが、ここからもすでに伺える。
第2章「戦後の終わりとはじまり」の冒頭を飾るのは小沢剛、村上隆らが参加していた、60年代の前衛的な路上パフォーマンスのオマージュともいえる「ザ・ギンブラート」や「新宿少年アート」という自主企画展を、メディア・アーティストの八谷和彦が写した貴重な映像記録だ。
90年代から本格的にコレクションを形成し始めた高橋は、バブル経済の崩壊や、オウム真理教事件などの社会を揺るがす出来事が起こった当時の時代背景において、日本の文化や社会情勢に鋭い批評性をもって制作を行っていた作家の作品を積極的に収集し、彼らの活動を下支えし続けてきた。高橋が「若い世代の叫び」と表現する作品群は、90年代特有のカウンターカルチャー的なエネルギーに満ちており、このような路上パフォーマンスもその流れを示す重要な活動のひとつである。
前半の展示を見進めていくと、近代以前の絵画作品や、マンガ・アニメーションといったサブカルチャーの引用によって文脈を生成する日本現代アートのひとつの流れが見えてくるようだ。「機動戦士ガンダム」のヒロインをモチーフとした西尾康之の彫刻作品や、池田学のカラーインクとペンを用いた超細密画、名画の中の登場人物の顔を自画像に置き換える森村泰昌のセルフポートレイト作品など、本章に登場する高橋龍太郎コレクションの代名詞とも言える作品は、まさに2000年代の日本現代アートのハイライトであり、アーティストたちが日本発の現代アートを探求した軌跡を示すものだ。
高橋龍太郎コレクションの深化をとらえる第3章では、精神科医である高橋が一貫して関心を持ち続けている「人間/人類」に焦点を当て、奈良美智や加藤泉、舟越桂、千葉正也、森靖といったアーティストの作品が展示される。
また、本章では、高橋龍太郎コレクションに収蔵されている女性作家の作品がまとめて展示されていた。少女の顔を独自の手法で精緻に描き出す加藤美佳や、フェミニズム的視点から女性の生や社会的抑圧を生々しく描きだす前本彰子、不定形な自己を現実と非現実の中間へと踏み込むような筆致で描き出す山中雪乃など、それぞれ固有のエネルギーに満ちた作品が、鑑賞者を惹きつける。
第3章以降の展示から感じるのは、高橋龍太郎コレクションの深化が常に時代とともにあるということだ。本展では若手作家の作品も数多く紹介されており、各アーティストが様々な手法、関心のもとで人間、そして社会の諸相を描きだしていることが強く感じられた。
東北地方にルーツを持ち、戦後の復興期に幼少時代を過ごした高橋にとって、2011年に起こった東日本大震災、福島第一原子力発電所事故は非常に大きな出来事であり、本展の第4章「破壊と再生」では震災以降の社会への風刺や、その不安定な空気感をとらえた作品が展示される。
本展のもっとも大きな展示室には、被災地に救援へ向かった名もなき人々を表現した小谷元彦の5mを超える巨大彫刻作品や、震災以降、地球の振動を新しい画材と感じ、ときに土木工事や縫い物などもその手法として制作をする鴻池朋子の作品が展示されている。
ここまで展示を見てきて、やはり思わずにはいられないのが、展示される作品数がとにかく多い、そしてでかいということだ。この作品たちは普段どこでどのように保管されているのだろう……? いや、そもそもどうやって現美(東京都現代美術館の略称)まで持ってきたんだ……? 美術史的な連続性やアーティストひとりひとりの関心をキャプションや作品のディテールを通じて読み取りながらも、ついつい素朴な疑問が浮かんできてしまった。
また、本章を見ていて気が付くのは、震災以降のアーティストたちの表現手法上の変化だろう。たとえば、アーティスト・コレクティヴのChim↑Pom from Smappa!Groupは、福島第一原子力発電所事故の発生した地域にみずから介入し《気合100連発》(2011)という映像作品を、地域の若者と制作する。ここでは主題のための表現というよりむしろ、制作の過程を見せることがひとつの表現となっており、このような現代アートにおける表現の多様化も、本展の展示からは感じ取れる。
東日本大震災以降の収集作品が展示される第5章では、震災以降ますます強まった「わたし」という存在の不確定性を問い直すような作品群が展示される。冒頭に展示されるのは、大山エンリコイサムの70年代ニューヨークのストリートペインティングを再解釈した絵画作品や、やんツーの機械学習プログラムを導入したドローイングマシーンによって制作された絵画作品など、作者の主体性や、テクノロジーを起点とした非人間中心的な世界への思索をうながすような作品群だ。
また、本章の中盤で展示される坂本夏子と梅津庸一の作品は、コラボレーションという制作方法によって「わたし」という概念が融解した「絵画のあり方」を追求している。現代のアーティストたちは、おのおのが独自の手法や素材との格闘を通じて、多義的であいまいな「わたし」という概念の拡張を図っているのだ。
いまなお拡大を続ける高橋龍太郎コレクションだが、近年、高橋を惹きつけているのはストリートを舞台に制作を行うアーティストたちの作品群だ。近年の収蔵作品を中心に紹介する第6章では、路上で発見した記号の断片を身体を通して再配置することで、新たな言語を作り出そうと試みる鈴木ヒラクの作品や、街灯やガードレール、道路工事のサインなどを素材としたインスタレーションを制作するSIDE COREの作品などが展示されていた。
本章の最後には、高橋にとって特に思い入れのある近代の画家、里見勝蔵の作品が展示される。フランスにわたり、日本に「フォービズム」を紹介した人物として知られる里見は、晩年、路傍の石に顔を描いた作品を継続的に制作していたという。高橋が収集してきた日本独自の現代アートを探求するアーティストの作品と、近代に「洋画」というジャンルに取り組んだ里見の作品、その両者が「ストリート」という場所で交わり、展覧会は幕を閉じる。
井嶋 遼(編集部インターン)