19世紀フランスを代表する画家で、印象派の画家たちにも大きな影響を与えたエドゥアール・マネ(1832~1883)。その日本における受容を考察する展覧会「日本の中のマネ―出会い、120年のイメージー」が練馬区立美術館で11月3日まで開催されている。国内にあるマネの作品と資料、彼の影響が見て取れる画家の石井柏亭や山脇信徳、安井曾太郎らの作品を通し、明治から現代までの「マネ・イメージ」を探る本展に、2人の現代美術家が参加している。ひとりは、マネの代表作《オランピア》(1863)や《フォリ=ベルジェールのバー》(1882)を新たに解釈し幾つもの作品を生み出してきた森村泰昌(1951年生まれ)。もうひとりの福田美蘭(1963年生まれ)は、本展のために9点の新作を制作し、マネが生涯こだわり続けたサロンになぞらえて日展(*1)に新作を出品する試みも会期中に行う。
西洋や日本の名画をもとに独自の視覚世界を作り出す福田がとらえた、マネの革新性とは何か。日展に挑戦する狙いとは? 福田の自宅で話を聞いた。(文中に登場するマネ作品は本展非展示)
──日本の近現代美術の流れを考えるうえでも示唆に富む本展に、福田さんは11作品を出品されてうち9点が新作です。どのような経緯で本展に参加されたのでしょうか。
昨年10月ごろに(本展を企画した)練馬区立美術館主任学芸員の小野寛子さんから、今回の展覧会に私の作品を展示したいと連絡をいただきました。最初の打ち合わせでは、マネの《草上の昼食》(1863)の画中の人物の視点を想像した描いた《帽子を被った男性から見た草上の二人》(1992)と、その新聞に掲載された図版を使った作品の2点を展示する予定とのことでした。でもちょっと前の作品だし、小野さんが書かれた2つの論文(*2)を読むと、それがとても面白かったんですね。ひとつは洋画家の石井柏亭、もうひとつは詩人の木下杢太郎(もくたろう)のマネ受容に関する論考で、かいつまんで言うと2人とも海外の批評を介してマネの作品を解釈したために偏りが生じ、それが日本に広まったという内容でした。日本におけるマネ受容のひとつの限界ですね。非常に興味深い視点だと思いました。
西洋と東洋の問題は私の中でも大きなテーマです。西洋美術は近く感じるのに、東洋とはやや疎遠な自分に気づいて、ここしばらく意識的に日本美術をテーマにしてきましたが、この際もう一度マネに取り組もうと思い、新作を描きたいと小野さんにお話しして、そこからスタートしました。
──最初から新作ありきではなかった。
私の初期の作品である《帽子を被った男性から見た草上の二人》は、マネの《草上の昼食》をコード化された名画のイメージとして扱っています。マネの本質を理解した作品では全くない。そこがすごく引っかかって、展覧会が始まるまで1年を切っていたんですけれど、やれるだけやりたいとお願いしました。
──最初はどのように取り組まれたのですか?
まず文献を読み込むことから始めました。とくに三浦篤さんの『エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命』(角川選書、2018年)に刺激を受けました。最初の小野さんの説明を要約すると、明治期に始まった日本の西洋画はまず印象派に大きな影響を受けたので、やや年代が上のマネに関する情報は少なかった。その後、国内に作品もあまりない(*3)なか、付焼刃的にマネを解釈してきたことが、こんにちマネを理解する困難につながっているのではないかと。そもそもマネは難しい人ですけれど、彼を理解できる土壌が日本になかったということですね。
──記事を書く立場からすると、例えば画家について書くときは「印象派の」といった具合にわかりやすい冠言葉をつけます。マネは「近代美術の父」という呼称が一般的ですが正直、モダニズムの出発点に立った画家として認識されているかと問われると、結構あやふやな気がします。
そうですね。私はこの展覧会で出会うまで、マネを全く理解していなかったとわかりました。以前からマネの筆捌きとか、色彩の美しさとか、非常に都会的なセンスは好きではいたのですが、本質的な部分は考えなかったし、見えてもいなかった。三浦さんは著書で「マネの画業を理解することが西洋絵画史を理解するに等しい」(*4)と書かれていますが、もしそうなら私が1年だけ考えてすべて理解できるはずもなく。ただ、過去の存在に収まらない可能性が、マネの画業にあると感じとることができました。
──今回、最初に制作されたのはどの作品ですか。
一番初めに描いたのは《つるバラ「エドゥアール・マネ》。インターネットで「マネ」を画像検索したら、彼の名前が付いた品種のバラが出てきました。学術的な文献や著作にヒントを得るにしても、いつもそうしているように生活のなかでテーマを探さないと自分の中から出たリアルな作品にならないので。そのバラの花を複製図版から自在にイメージを選んだマネにならい、彼の作品図像に重ねています。イメージを操りながら画面を構成していく彼の手法の今日性が、描きながらよくわかりました。
ミュージアムショップを回るうちに、マネのグッズが極端に少ないと気づいて、それを買い集めて絵にしたり。
──《ミュージアムショップのマネ》ですね。確かにゴッホやモネのグッズはたくさんありますが、マネのものはあまり見かけません。商品にしにくい性質が彼の作品にあるのかもしれません。
──マネと関係ないモチーフの《ゼレンスキー大統領》は、どのような状況で描かれた作品ですか?
展覧会の準備とともにロシアのウクライナ侵攻が始まり、ウクライナのゼレンスキー大統領が連日テレビに出るようになりました。彼が真っすぐにこっちへ目を向けて話す。その視線が、マネ作品における「見る・見られる」関係を考えていた時期だったから、ひっかかるわけですね。
「見る・見られる」で言えば、やはり新作の《ヴィクトリーヌ・ムーラン》もそうです。ヴィクトリーヌ・ムーランは、マネの《草上の昼食》《オランピア》など重要作品のほとんどに出たモデルで、こちらを彼女の見つめる視線が手元にあったファッション誌の女性モデルの視線に重なりました。作品は、彼女の目のイメージを雑誌の表紙にはめ込んでいますが、様々な規制がかかり、雑誌名やロゴが分からないように円形シールを張って公開しています。
──本展は福田さんが日展に挑戦する試みも話題です。マネが生涯出品を続けたサロンになぞらえて、官展の流れをくむ日展に新作絵画《LEGO Flower Bouquet》を出品し、審査を受けるそうですね(作品は審査のため10月13日まで本展で展示し、選外の場合は30日から再度展示)。
マネが終生こだわったサロンとは何だったのか、考えてみたかったんです。落選やスキャンダルを繰り返しても(*5)、印象派の画家たちは出て行っても、彼は残ったわけでしょ。当時サロンは画家として認められる重要な場で、そこでマネは評価されて名誉や社会的地位を手に入れたかった。だけど一方で、彼の革新的な技法や手法が足を引っ張る。それでも絶対に妥協した作品は描かず、機会をとらえて、「かたち」にして発表する。批判されても叩かれても、観客に作品を見せてさえしまえば新しい受け止め方も出てくるし、伝統的なサロンに認めさせてこそ意味があると思っていたんじゃないでしょうか。
大勢におもねらず、作品を見せ続けたマネの心意気は、美術家ならそうあるべきだと思うし、とても共感します。作品を修正する必要が生じても、《ヴィクトリーヌ・ムーラン》を本展に出したのは、そんな彼に学んだ部分がありますね。
──現代美術家の福田さんが日展に応募されることに意表を突かれました。
マネに取り組んだから日展に出すことにしたわけで、これが最初で最後になるでしょうね。日展には大勢の美術ファンが集まりますが、現代美術の側はある種のイメージが刷り込まれているので、無意識に住み分けをして、あえて関わらない。ある意味、存在をスルーしてきたとも言えます。今回の試みは、外に向けた問題提起というより、自分が実際に応募することで、日展やサロンについてじっくりと考えられると思ったからなんです。
──日展に応募する《LEGO Flower Bouquet》は、マネ最晩年の《花瓶の苔バラ》(1882)をテーマにしています。福田さんが描いたのは、玩具のレゴの花ですか?
そう、市販されているものを組み立てて、気に入って自宅に飾っていました。それを、マネの作品と同じようにガラスの花瓶に入れて描いています。
マネは晩年、病が進んで歩けなくなり、51歳で亡くなる前の年に《花瓶の苔バラ》を描いたんですね。よく絵を見ると、バラの花を花瓶いっぱいに挿しこみ、でも入りきらなかったようで1本だけ横に置いてあります。やがて自分は死ぬと分かっていて、それでも、いつか枯れる花の美しさを形に残そうと描きあげたマネの気持ちが、ますます冴える筆のタッチに出ていると感じます。
レゴの花は人工物だけど、生きた花をイメージできる美しさがあります。そして永遠に枯れない。いま私は59歳だから、マネはずいぶん早く亡くなってしまったのだなと思って、その思いを作品に託しました。割とストレートな、マネに対するオマージュですね。
──日展の審査はこれからですが、どうお感じですか。
応募する以上は入選したいですね。ただ、入選しても選外でもいろいろなことを考えると思います。絵画は、ほかの人に見てもらって初めて物質から「美術」になるわけで、マネもそう思っていたんじゃないでしょうか。私は自分のために絵を描いていますが、やはり作品から何かを感じて頂けたらなお嬉しいですし、見てくださる方のことは大切に考えたいと思いますね。
──モチーフが極めて今日的な《ゼレンスキー大統領》について、もう少し伺わせてください。「視線が引っかかった」と言われましたが、どこが気になったのでしょうか?
テレビで報道されるゼレンスキー大統領は、ほぼ決まって正面からこちらをじっと見つめてきます。多分意識的にそうしていると思うんですけど、言葉だけでなく視線でも訴えて私たちの心や記憶の中に残っていく、ある種の戦略だと感じました。あの映像を絵画に置き換えたとき、マネ作品の中の視線の意味が考えられるのではないかと思いました。
マネ以前の、例えばロココ期の風俗画なら、画中の人物は本を読んだり会話したりして、鑑賞者を意識していません。私たちは一方的に見るだけから、絵の物語性の中に安心して入っていける部分がある。それを全く拒否するのがマネの絵画で、彼の作中人物の視線は、私たちが目を合わせることを要求してくるけれど、なぜこちらを見つめているのか分からない不可解さがあります。視線そのものに攪乱性があるんですね。
同じような印象をゼレンスキー大統領の映像を見たときも受けました。今回の戦争の特徴は、悲惨な状況を伝える報道よりもさらにSNSによる発信が大きな武器になっていることで、膨大な情報が混在するなか、現実は非常に不明瞭で、表層に現れる現実もとらえどころがなく感じられます。そうした現実表象が不確定な時代を、マネは表現しようとしたと感じていたので、大統領の視線は作品になるんじゃないかと。
──本作を見ると、液晶画面に映っているゼレンスキー大統領の姿だとすぐにわかります。普通の肖像画として描くこともできたと思うのですが、媒体を介したイメージにこだわられたのですか。
映像で見慣れたイメージを大事にするために、あえて絵画的な感覚的・感情的な描き方は抜くようにしました。網膜を通してキャッチしている形をそのまま絵画にすることで、私たちが普段「何を見ているか」の問題も逆照射できると思ったので。
マネは、戦争や歴史的事件を感情や物語性を入れずに非常に冷静に描いたんですね。例えば《皇帝マキシミリアンの処刑》(1869)は、処刑の場面が淡々と描かれて描き手の感情は感じられません。まあ、マネの場合は人物に対しても冷淡だから、何を描いても静物になると言う人もいるぐらい。筆が冷たいというか、フラットで描き方に情が入らない。そこが新しい。
《ゼレンスキー大統領》は、見る人の中に既にインプットされているイメージが出てきてほしかったので、そのための画面処理として私の筆致や感情が入らないように努めました。これもマネの作品から学んだところが大きいですね。
──これまでも東日本大震災やアメリカ同時多発テロなど、国内外の出来事をもとに作品を制作してこられました。時事的な問題を扱うとき、気にされる点はありますか?
私は身近な日常の出来事から発想することが多くて、決して社会や政治の問題を取り上げようと構えているわけではないんです。でも大震災やコロナ、今回の戦争のような出来事は、無視して生活を送ることが困難なわけで、無理して違うテーマを探すのも不自然な気がします。ウクライナ侵攻にまつわる問題も、それを形にするのが「いま」を映しこむことだし、私は自分が生きている時代を作品に映しこみたい気持ちを常に持っているので。
ただ扱いは非常に慎重であるべきだと思っています。まず、鑑賞者を不快することがあってはいけない。また自作について丁寧に説明するように心がけています。他にもありますが、いちばん気を付けているのは、美術の力で人を癒そうとか、社会にメッセージを送ろうとか、ちょっとでも考えないこと。作品が社会・政治的に利用される要素が入りこまないように、その点は非常に気を付けます。もちろん社会のために美術を活用する考え方もあって、それを否定はしませんが、私にとって美術は基本的に自分がより良く生きる方法として主体的に選択したものなので、「人のため」というのは違う気がするんです。
──時事的と言えば、新作《テュイルリー公園の音楽会》は、マネの同名作品(1862)の光景にYouTubeでライブ配信されている渋谷スクランブル交差点の風景を重ねています。制作にインターネットは結構利用されるのですか?
私は携帯電話を持たないので、自宅のパソコンで調べものをする程度です。スクランブル交差点の映像はたまたま見つけたんですけど、信号が変るたびに人の波がワーッと動いてスッと引く。延々とその繰り返しで、人同士は互いに関わりを持たずに擦れ違っていく。その希薄さが、マネが新しい「近代のかたち」として描いた公園の光景につながって見えました。マネの作品は奇妙な絵で、一度描いて塗り潰したような部分があり、スピードを感じさせる荒々しい筆致も特徴的です。彼が表現した移ろいゆくはかない都市生活は、現代もあまり変わらない気がします。
──携帯を持たないのは、情報を意識的に遮断している面もありますか?
もともと自然光の中で見るのが好きで、発光体はあまり好きじゃないんです。最近は電車に乗ると、携帯を見ないで前を向いて座っているのは大体私だけ(笑)。でも、そうやってひとりで考える時間が大切なんですね。
──最後にお聞きしたいのですが、この1年マネの画業に向き合われて、現代美術家としてどの点にもっとも刺激を受けられましたか?
彼が過去と断絶して新しい絵画を作ったのではないところが、いちばん大切だと感じました。つまり、スペインのベラスケスやゴヤ、イタリアのティツィアーノといった過去の巨匠の作品を完全に咀嚼したうえで、従来の絵画の約束事は無視して、新しい手法や技法に挑戦する。古典に対して緊張感があって、ものすごく過激な態度です。だからこそ、イメージを操作しながら画面を構成するといった自由な感覚に基づく革新的な手法を生み出せたのだと思います。
そうしたマネの姿勢は、写真が普及しイメージの分化が始まった時代の影響もあるのでしょうが、彼の本質的なものだと感じます。過去や伝統から学ぶのは当たり前のようだけど、いま美術家に切実に必要なことだと思いました。結局、私たちはマネが切り開いた絵画表現の領域を未だにさまよっているような気がするので。
*1──正式名称は「日本美術展覧会」。日本初の官展「文展」(1907年第1回開催)の流れをくむ、国内最大規模の公募による総合美術展。今年の東京展は11月4日~27日に六本木の国立新美術館で開催される。
*2──小野寛子「石井柏亭のマネ受容による絵画観の成立とその影響」(『言語社会』第5号、一橋大学大学院言語社会研究科2010年度紀要、2011年)、同「木下杢太郎のエドゥアール・マネ受容に関する一考察」(『比較文学』第57巻、2015年)
*3──「日本の中のマネ」展の図録によると、日本に所在するマネの油彩画(パステル画を含む)は17点。本展では、うち7点を展示。
*4──三浦篤『エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命』p.4
*5──マネの《草上の昼食》《オランピア》はともに発表時、神話画や歴史画でない「現実の女性の裸体」を描いたとして非難を浴びた。
福田美蘭(ふくだ・みらん)
現代美術作家。1963年東京生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒、同大学院美術研究科修士課程修了。1989年、第32回安井賞を最年少で受賞。西洋近代美術や日本美術、広告など身近なイメージの既成概念に対して問題提起し、新しいものの見方を提示する作品を国内外で発表。第7回インド・トリエンナーレ金賞(1991)、芸術選奨文部科学大臣賞(2013)など受賞多数。近年の主な個展に東京都美術館「福田美蘭展」(2013)、千葉市美術館「福田美蘭展 千葉市美コレクション遊覧」(2021)など。