現在の日本で〈民俗学〉と〈アート〉が結びつきそうな場面は、決して少なくない。たとえば、町起こし・村起こしその他の理由で開催される「地域芸術祭」で展示される作品には、開催される場所の歴史、土地の記憶を素材にしたものが目につく。
こうした場所の特性(環境や歴史や民俗等)を主題や動機に据えた〈サイト・スペシフィック〉な作品は地域にも受け入れられやすく、アートをとおした〈教育〉に配慮しているとして評価も得られやすいようである。いっぽうで、環境・歴史・民俗等を作品のなかに取り込んでいても、現代アートとしての批評性を自覚的に意識していない場合には、たんなる〈地域性〉に従属するだけにとどまる場合もある。
ところで、〈民俗学〉と〈アート〉について考えるにあたり、〈民俗学〉が対象とする〈民俗〉とはいったい何かについて、あらかじめ説明しておいたほうがいいだろう。
柳田国男の『民間伝承論』『郷土生活の研究法』をもとにした『民俗学辞典』(民俗学研究所編、1951)の分類案では、民俗資料を3つに分類し、第一部「有形文化」、第二部「言語芸術」、第三部「心意現象」とする。
このうち「有形文化」とは、住居、衣服、漁業、林業、農業、交通、家族、婚姻、誕生、葬制、年中行事、神祭など、「言語芸術」は命名、言葉、諺・謎、民謡、語り物、昔話、伝説、「心意現象」は妖怪・幽霊、兆・占・禁・呪、民間療法などである。そして〈21世紀の民俗学〉においては、「有形文化」と「言語芸術」の過去から現在への伝承のされかたや変化のありようを見据えることも重要だが、ほかの学問に踏み込み難い領野として「心意現象」に重きを置くべきだと考える。
〈民俗学〉と〈アート〉、あるいは〈民俗〉の関係性を考えようとする際にも、「心意現象」に含まれる、妖怪・幽霊、兆・占・禁・呪、民間療法といったものがどのように“表現”されてきたか、またそれらが〈芸術(アート)〉と呼ぶべき水準に達しているものなのかが問われなければならない。そしてこのことは、現代の〈アート〉との関係においてはなおさらのことである。
現代の〈アート〉における〈民俗学〉〈民俗〉との関係について考えるとき、〈死〉や〈死者〉を動機や主題とした作品に着目したい。〈死〉や〈死者〉は先ほど示した『民俗学辞典』の3分類のどこにも示されていないけれど、「心意現象」に含まれるべきものだ。
〈死者〉をめぐる民俗学の思想として、農政官僚時代の柳田国男が中央大学で行った農業政策学講義(1902〜03)において、このように述べていた。
「国家は現在生活する国民のみを以て構成すとはいいがたし、死し去りたる我々の祖先も国民なり。その希望も容れざるべからず。また国家は永遠のものなれば、将来生れ出ずべき我々の子孫も国民なり。その利益も保護せざるべからず」。
筆者が「死者の民主主義」として説明する柳田の死者観は、死者を幽霊や亡霊ととらえて認識するものではなく、〈死者〉は“実在”し、進行形の社会に機能すべきであるというものだ。つまり、柳田は〈死者〉を(矛盾した言いかただが)生々しい存在として、彼らとの交渉・交感に、〈生者〉とするのと変わらない現実性を前提しているのである。
小泉明郎《Sacrifice》(2018)は、柳田民俗学が前提とした〈死者〉の実在という事態を、〈アート〉の世界で表現したものではないかと筆者は見たのである。
《縛られたプロメテウス》で文化庁メディア芸術祭大賞を受賞した小泉明郎が初めて取り組んだVRインスタレーションである《Sacrifice》は、戦争の加害と被害の追体験に導くインスタレーション2作品と立体作品からなる「Dreamscapegoatfuck」(無人島プロダクション、2019年7月20日~8月31日)で展示された。
《Sacrifice》において私たちは、イラク戦争で家族を殺されたアハメッドの身体と一体化し、彼の悲惨な体験を聞くことになる。アハメッドは平穏だった日々から語り始め、家族への愛情や、アメリカ軍の空爆で家族が殺された情景を訴えかけるのだ。VRの効果もあり、アハメッドに語り掛けられる〈死者〉は、まだ目の前に実在しているかのようである。しかも、深い悲しみとともにアハメッドに抱きしめられる〈死者〉は、鑑賞者である私たちなのだ。
目の前にいる〈死者〉と語り合えること、そして〈死者〉に触れ、抱きしめることすら可能であること。日本列島から離れた地域での出来事がモチーフになっているが、小泉は新しいテクノロジーによって、民俗的な〈死者〉、民俗的〈身体〉にまさに肉迫している。
河童や天狗、一つ目小僧、ザシキワラシといった〈妖怪〉は、『民俗学辞典』の3分類の「心意現象」に明示され、民俗学の研究・調査対象として、多くの人が思い浮かべるものである。このように〈民俗学〉と〈妖怪〉が結びつきやすいのは、日本民俗学の幕開けに柳田国男が『遠野物語』(1910)で〈妖怪〉を積極的に採用したからだ。
民俗学では『遠野物語』以降も、日本列島に暮らしてきた(暮らしている)普通の人々、いわゆる「常民」の固有信仰の一端を示すものとして、継続的に研究・調査研究されていく。また、非科学的で非合理的な存在である〈妖怪〉を、「心意現象」のひとつとして考察することは、他の人文諸科学と分け隔てる〈民俗学〉の学問的アイデンティティともなった。
いっぽう、心意現象しての〈妖怪〉は目に見えない存在であるため、時代状況によって、つねに視覚化され、表現の対象になるとはかぎらない。
妖怪を素材や主題にした絵画が描かれ始めたのは、日本では中世からで、近世には都市化と大衆社会化により娯楽や鑑賞を目的として〈妖怪〉が描かれるようになった。しかし近代に入り、妖怪が非科学的で非合理的な存在として退けられるようになると、妖怪は美術史、絵画史の上からほとんど姿を消すことになる。そして、視覚表現として〈妖怪〉が再登場するのは、太平洋戦争後、ポップカルチャーやサブカルチャーという舞台を待つことになるのだ。
そんな美術、アートの領域における〈妖怪〉の不在を埋めようとする、意欲的、画期的な試みが、現在、豊田市美術館で開催中の「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」展(2021年10月23日~22年1月23日)である。
シンガポール出身の作家ホー・ツーニェンは、映像や映像インスタレーションを駆使し、19世紀には英国領となり、太平洋戦争中には日本の軍政下に置かれていたシンガポールの歴史や伝承を動機に、近代以降のアジアの問題を主題とした作品を発表してきた。
とくに近年は、「あいちトリエンナーレ2019」で展示した《旅館アポリア》、今春に山口情報芸術センター(YCAM)で発表した《ヴォイス・オブ・ヴォイドー虚無の声》で、映画監督の小津安二郎、漫画家・アニメーション作家の横山隆一から、哲学者グループ「京都学派」まで、戦争の思想的“翼賛”にどこかで結びつく営為を扱ってきた。そんなホーが、今回は〈妖怪〉に取り組んだのである。
中世・近世の絵巻や絵草子に描かれた「百鬼夜行」をアニメーションで表現した《100の妖怪》、近世に流行した怪談会「百物語」になぞらえた《36の妖怪》などに登場する〈妖怪〉には、シンガポールを含む東南アジア地域でも人気が高い、現代日本のポップカルチャー、サブカルチャーを経由することで、新たな表現と解釈を吹き込まれている。
たとえば、河童・人魚・海坊主・だいだらぼっち・ろくろ首といった日本人ならなじみ深い妖怪ばかりではなく、太平洋線戦争中にシンガポールで活動し、ともに「マレーの虎」と呼ばれた2人の人物(山下奉文陸軍大将と「快傑ハリマオ」のモデルとして知られる谷豊)や、軍人、スパイ、思想家、あるいは「国体」といった概念などが〈妖怪〉となって現れるのだ。
アートの世界では眠っていたはずの〈妖怪〉たちの再生が、日本人作家によってではなく、なぜアジアのほかの国のアーティストによって可能になったのか。そこには〈妖怪〉を非科学的、非合理的な存在だとして“隠蔽”してきた日本の近代を、太平洋戦争や東南アジアという回路を通過し、その歴史の暗部に潜り込むことで初めて成し遂げられたとみられるのである。
これまでの民俗学で「心意現象」と呼ばれてきたカテゴリーは、〈感情〉という呼びからをしたほうが、現在進行形の現象の民俗性を追究するのにふさわしいかもしれない。近年の歴史学では、ヤン・プランパーの『感情史の始まり』やバーバラ・H.ローゼンワインとリッカルド・クリスティアーニの『感情史とは何か』など、〈感情の歴史〉という領域が注目を集めている。しかし、民俗学では「心意現象」と称えられてきた〈感情〉をめぐっては、生活意識に基づいた探究がなされてきたのである。
『笑の本願』(1947)、『不幸なる芸術』(1953)などで柳田国男は、喜怒哀楽のような〈感情〉が生理的、あるいは自然発生的なものではなく民俗的な規範によって形成されるものであることを、「感情の民俗学」「感情史としての民俗学」というべき視点からとらえようとした。
21世紀の社会の、大きなアポリアとして立ちはだかる差別やレイシズム、ジェンダー、マイノリティ、ナショナリズムやレイシズムといったテーマも、背景や歴史、民俗が醸成してきた〈感情〉によってもたらされ、また新たで複雑な〈感情〉を生み出す。21世紀の民俗学はこうした視点に立ち、またこの点で先端的で尖鋭な〈アート〉と結びつくのだ。
藤井光はまさに、〈感情史としてアート〉に取り組んできた作家だが、水戸芸術館現代美術ギャラリーにおけるグループ展「3.11とアーティスト:10年目の想像」(2021年2月20日~5月9日)で展示された《あかい線に分けられたクラス》は、差別という〈感情〉の形成と複雑さを主題にしている。
1968年4月に起こった公民権運動の指導者キング牧師の暗殺直後に、ジェーン・エリオットという教師が行ったワークショップ「青い目・茶色い目」を、藤井は東日本大震災の原発事故後の状況に置き換える。福島第一原子力発電所の所在地の隣県である、茨城県水戸市の小学校に通う児童を、あかい線の内側(ゾーン=圏内)に住んでいるかどうかで、教師が「いい子」と「悪い子」に振り分け、次の日にはゾーンの内と外で評価を逆にして、「いい子」と「悪い子」を振り分ける。
原発事故という社会的犯罪によってもたらされた差別をはじめ、他人を汚れているとしたり、排除したりする〈感情〉はどのように生まれるのか。また、私たちはこうした〈感情〉から逃れることができるのか。世界の各地に遍在し、またコロナ禍にも露出した差別感情の社会性、歴史性を藤井は問うているのだろう。そして、こうした〈感情〉の構造は本来、社会学や歴史学以上に民俗学が着目してきた領域なのである。
【もっと知りたい人へ: おすすめの本・映像】
・志賀理江子『Blind Date』T&M Projects、2017[写真集]
・佐藤真監督『阿賀に生きる』紀伊國屋書店、2010(公開:1992)[ドキュメンタリー映画]
・塚田有那・高橋ミレイ・HITE-Media編『RE END 死から問うテクノロジーと社会』ビー・エヌ・エヌ、2021[評論・マンガ]
畑中章宏
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