東京都美術館で「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」が開幕した。会期は4月9日まで。
エゴン・シーレは1890年オーストリア生まれ。幼少期から絵画に関心を持っており、16歳でウィーン美術アカデミーに入学する。クリムトとの出会いやアカデミー退学などを経て1909年に「新芸術集団」を結成。挑発的なモチーフや自画像を描き、表現主義的な画風を確立した。その後もドイツでの個展(1913)や分離派展(1918)などで評価を高めたものの、18年にスペイン風邪に感染。28歳という若さでこの世を去ることになった。
本展は日本でおよそ30年ぶりとなるシーレの大規模個展。世界最大のシーレ・コレクションで知られるレオポルド美術館の名品が来日した。シーレの油彩画や水彩画、版画と、同時代に活躍した画家の作品あわせて約120点が展示される。シーレの生涯を追いかけつつ、ウィーン世紀末における芸術表現の動向も浮き彫りする。
シーレの作品が重点的に展示されるのは本展の後半。まずはこちらから紹介しよう。章構成は女性像、風景画、裸体というシーレの主題や、新芸術家集団の仲間やパトロンといった交友関係に基づいて分けられている。
シーレ絵画において、もっとも重要なテーマのひとつが「自画像」だ。本展ポスターにも起用されている《ほおずきの実のある自画像》(1912)は、もっともよく知られたシーレ作品のひとつ。担当学芸員の小林明子が「怯えているようにも、攻撃的にも見える」と語るように、画中のシーレのまなざしが印象的だ。画面全体としては暗色が用いられているものの、ほおずきの赤色がアクセントとして機能している。第13章「裸体」のドローイングでも赤い靴下留めが描かれており、シーレは赤をワンポイントで用いることを好んでいたのかもしれない。
もともとシーレは、《ほおずきの実のある自画像》と当時の恋人を描いた《ワリー・ノイツェルの肖像》(1912)を対として考えていた。残念ながら本展での来日は叶わなかったが、気になる人はぜひチェックしてみてほしい。
《自分を見つめる人 II(死と男)》(1911)は自己の分裂を想起させる作品。画面中央にいる黒い男の背後には、灰色の亡霊が彼を抱くように描かれており、加えて、画面右の灰色が拡大された顔に見えるのは筆者だけではないだろう。自画像を描くという内省的な行為を通じて、自己の曖昧さをいかに表現するか。シーレの関心が、こうした点にあることがうかがえる。
シーレの作品はしばしば「エロティシズム」という言葉で論じられる。その理由のひとつとして、彼の独特な肉体の描き方が挙げられるだろう。《闘士》(1913)に注目しよう。《裸体自画像(「ゼマ」版画集特装版のための試し刷り)》(1912)、《しゃがむ裸の少女》(1914)など多くのドローイングと同様に、肌の陰影作りにオレンジと深緑色が用いられていることによって、一目でシーレ作品とわかる人物像が実現されている。
他方で、《闘士》はそのポージングも独特で、挑発的にも見える。《叙情詩人(自画像)》(1911)では極端にねじ曲がった姿勢をとった男が描かれ、《しゃがむ裸の少女》(1914)はあぐらをかき、前屈をしているようだ。こうした体の描き方は、鏡やカメラの前で繰り返し高揚した身振りの実験をしていた、シーレの探求に基づいている。描かれる肉体が自然体ではなく、切迫した状態であることもまた、シーレ作品に大きな魅了をもたらしていよう。
女性像は、自画像に次いでシーレ作品の重要なテーマだ。当時の恋人ワリーの特徴を持った《悲しみの女》(1912)などパートナーとなった女性はもちろん、早くに父を失ったシーレにとって、母親や姉妹もまた大切なモデルだった。ほかにも、妊婦や子供を描いた作品も並ぶ。
人物画が印象的なシーレだが、ウィーンを離れたことをきっかけに、風景画も積極的に描くようになった。《モルダウ河畔のクルマウ(小さな街 Ⅳ)》(1914)は母の故郷である南ボヘミアの町、クルマウの家並みが描かれた作品。上方からの視点でとらえられた本作は、カラフルな家の壁面と暗色の屋根のバランスが絶妙で、本展オリジナルグッズにも多数採用されている。《ガルファリオへの道》(1912)は、ウィーン近郊のノイレングバッハの丘からみた野原の風景。シーレはこの風景を「ぼくが知る限りでもっとも素晴らしい」と評した。
展示を締め括るのは、シーレ晩年の作品群。《自刻像(胸像)》(1917)はシーレ自ら塑像を制作した作品。本展で公開されるヴァージョンはシーレの死後、オーストリアでもっとも重要な彫刻家のひとり、フリッツ・ヴォルトバが鋳造したものだ。
《しゃがむ二人の女》(1918)の制作を半ばにして、シーレは妊娠していた妻、エディートとともにスペイン風邪に感染し、28歳で死去する。彼は病床で以下のように語ったという。
戦争が終わったのだから、僕は行かねばならない。僕の絵は世界中の美術館に展示されるだろう
波乱に満ちた人生を写し出すかのように、情感あふれる絵画を残したシーレ。感染症、戦争という共通する問題を抱え、先行きの不確かな現代を生きる私たちに対して、その作品や生き様は何か示唆を与えてくれるはずだ。
本展の前半では、シーレと同時代の画家たちの作品も多数紹介されている。ウィーン分離派の創始者のひとりとして知られるグスタフ・クリムトは、シーレが17歳のときに出会い、その才能を高く評価。第4章「クリムトとウィーンの風景画」で展示されている、《装飾的な背景の前に置かれた様式化された花》(1908)と《菊》(1910)が示すように、キャリア初期におけるシーレの画風はクリムトの強い影響下にあった。本展で公開されるクリムト作品は《赤い背景の前のケープと帽子をかぶった婦人》(1897/98)、《シェーンブルン庭園風景》(1916)など。ふたりの作風を比較するのも面白いだろう。
同じく第4章で展示されている、チロル地方出身の画家アルビン・エッガー=リッツにも注目したい。リッツの作品は、故郷の穏やかな風景や勤勉な農民たちといった、静けさや慎ましさを感じさせる主題を選びながらも、時間を超越した普遍性や、ときに宗教的な畏怖すら想起させる。
第5章でフィーチャーされるコロマン・モーザーは、ウィーン分離派とウィーン工房の創設メンバーのひとり。章タイトル「万能の芸術家」の通り、多様な表現分野で活躍しており、彼の半生もまた興味深い。分離派の機関誌「ヴェル・サクルム(聖なる春)」に定期的にグラフィックを掲載するなど、モーザーは当初、デザイナーとして分離派に大きな貢献をする。しかし、ウィーン工房を去ってからは絵画に専念し、色彩表現の可能性を探求した。本展では、モーザーがデザインを手がけた分離派展のポスターやオーストリアの記念切手、長い構想を経た《洞窟のヴィーナス》(1914頃)、油彩による風景画などが展示されている。
ほかにも、クリムトとともにウィーン分離派を牽引したカール・モルや、夭折した表現主義の先駆者リヒャルト・ゲルストル、特定の芸術運動に参加せず、独自の道を歩んだオスカー・ココシュカなどの絵画が並ぶ。
このように本展では、シーレの代表的な作品に加え、当時の芸術に変容を巻き起こした、ウィーン分離派とその周辺の活動を概観できるはずだ。ぜひ会場に足を運んでみてほしい。