東京都現代美術館で5月28日まで開催中の「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」展が人気を呼んでいる。フランスのファッションデザイナー・クリスチャン・ディオール(1905~1957)と後継の歴代デザイナーのオートクチュールの服が一堂に会し、建築家・重松象平による空間演出や写真家の高木由利子が撮り下ろしたアーカイヴの写真作品も話題だ。本展の隠れた見所と美術館がファッション展を開催する意義を、社会学の視点からファッションを研究する小形道正・大妻女子大学専任講師が論じる。【Tokyo Art Beat】
近年、美術館にて開催されるファッションの展覧会が賑やかである。ファッション展はいくつかのタイプに分けることができるが、なかでもファッション・デザイナーの、あるいはファッション・ブランドの展覧会が盛んである。
昨年6~9月にはガリエラ宮パリ市立モード美術館の「ガブリエル・シャネル展 Manifeste de mode」が三菱一号館美術館に、昨年11~今年1月にはロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館の「マリー・クワント展」がBunkamuraザ・ミュージアムに巡回した。本年9月からはパリのイヴ・サンローラン美術館の協力による「イヴ・サンローラン」展が国立新美術館で予定されている。こうしたなか、パリの装飾美術館にて開催され、ロンドン、上海、ニューヨーク、ドーハを巡回し、昨年12月から東京都現代美術館にて開催されている「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」展は、とくにそのスペクタクルな展示手法から大きな話題を集めている。
このタイプの展覧会を鑑賞した際、最近の世の中の動向を踏まえれば、いくつかの批判がすぐに思い浮かぶことだろう。たとえば、本展ではクリスチャン・ディオール本人の作品だけではなく、その後を継いだイヴ・サンローラン、マルク・ボアン、ジャンフランコ・フェレ、ジョン・ガリアーノ、ラフ・シモンズ、マリア・グラツィア・キウリらのデザイナーたちの作品までもが展示されている。つまり、これは「デザイナー」クリスチャン・ディオールとしての展覧会というより、「ブランド」クリスチャン・ディオールとしての展覧会なのだといえる。
だが、そこで展示されている作品はDior Femmeすなわち女性の衣装のみに限定されている。2001年秋冬からエディ・スリマンがつとめ、クリス・ヴァン・アッシュ、そして現在のキム・ジョーンズへと至るDior Homme、あるいはそれ以前のDior Monsieurの作品は出展されてない。そこには多くのファッション展も抱える、性の非対称性がある。
ほかにも、作品が女性のみに限定されていると記したが、その女性の美しいとされる身体もまた極めて画一的である。統一されているマネキンがそれを物語る。性の選択肢の多様性以前に、身体の多様性もまた失われている。
けれども、実のところこうした批判はあまり建設的ではないようにも思う。そもそもデザイナーやブランドの展覧会の多くは足跡と変遷を辿りながら、その価値と永遠性を謳(うた)うのだから、ましてや主催にもかかわらず、自己反省的な身振りを求めることは非情なことかもしれない。むしろ、こうしたデザイナーやブランドの展覧会ではこれから幾度も繰り返されるであろう機会のなかで、何が語られていないのか、あるいは何が忘れられているのかということを、現在の地点より過去を指摘するのではなく、あくまで彼らの歩みに即して考えてみると、より一層彼らがつくりあげたい神話を楽しむことができるように思う。彼らの内包する自己矛盾を糾弾するのではない。「怪/妖しさ」こそファッションのおかしみのひとつでもあるのだから。
ただし、本展においていくつか気になる点があったことも事実である。たとえば、本展の率直な感想としては、「展示空間に作品が負けている」というものだった。それはパリの装飾美術館の展覧会写真や映像をみていたせいかもしれないが、実際に観たいと期待していた作品、とくにディオール本人やサンローランの作品はあまり出展されていなかった。
貴重な作品でもあり、多くの巡回を重ねていることから出展が難しいことも理解しうるし、各展覧会の出品リストを比較していないので断言はできないものの、本展ではガリアーノ以降の作品が中心であるように感じられた。
展示では「ミス ディオールの庭」のセクションがなにより美しい。そこでは各作品にあわせてトルソーがそれぞれカットされており、土台がみえないようにオーダーされている。これは予算や準備期間も要するためなかなかできることではない。
一方で、デザイナー毎にまとめられたセクションでは黒の抽象マネキンが採用されている。さきにマネキンが統一されていると記したが、女性の身体そのものも少しずつ変化しているにもかかわらず、1950年代から現在までの約70年間の作品をボディではなくひとつのタイプのマネキンで展示すること、あるいは1950年代の作品を現在のマネキンタイプで展示することには少なからず違和感が残った。もちろん、それは展示空間の統一を優先した結果でもあるのだろうけれども。
こうした出展作品について、また作品とマネキンの関係については、ほとんどないものねだりというか、五月蠅(うるさ)い我儘ともいえる。けれども、なかでも疑問に感じたのは以下の点であった。本展はスペクタクルな展示演出であったため、カタログにて作品の詳細や当時の写真などを眺めたいと期待していた。だが、カタログをひもとくと、それはほとんど本展のカタログというより高木由利子氏の写真集であった。一方で、パリの装飾美術館のカタログは通常のカタログらしいカタログで充実した構成になっていた。
もはや作品がほとんど観えないスペクタクルな展示手法が悪いとは決して思わない。カタログの作成にあたって版権処理が煩雑なこともあったのかもしれない。しかし、そうであれば、装飾美術館のカタログも本展のカタログの隣に置き、一緒に販売した方が少なからず誠実なように思われた。
また、それに関連して、高木由利子氏の写真ではいくつかの衣装をモデルが着用していた。しかし、あれは実際の作品をモデルが着用しているということなのだろうか。それともリプロダクションなのだろうか。もし実物であるならば、ディオールの場合はサンローランのように美術館ではなく、あくまでブランドのヘリテージ部門であるから美術品として扱わなくても許されるということなのだろうか。しかし、だとすると、多くのブランドがしばしば開催する百貨店の催事場やイベントスペースではなく、わざわざ美術館という場所にて通常では異例の6ヶ月間にも及ぶ展覧会を開催する必然性はいったいどこにあるのだろうか。
美術品とは、展覧会とは、また美術館とは何かということを改めて考えさせられたような気がする。本展が作品なのかそれとも商品なのか、展覧会なのかそれともプロモーションなのか、あるいはあの場所が美術館なのかそれともイベントスペースなのか。これもまたファッションのもたらす怪/妖しさのひとつなのだろうか。
けれども、こうした考えそのものが古臭いのかもしれない。この現状が美術館の指定管理者制度によるものなのか、アートのビジネス化によるものなのか、あるいはファッションのもつ怪/妖しい力によるものなのか、それについては改めて考える必要があるかもしれないが、もはやひとつのイベントとして楽しめればそれはそれで良いのかもしれない。
わたし自身シーチングと実際の作品の双方を鑑賞できたのは面白かったし、これからも開催中には幾度か足を運ぶことだろう。だから、色々と思うことをここに記したが、何より特筆すべきは将来の顧客となりうる高校生以下の若年層が、あのスペクタクルといわれる展示空間を無料で鑑賞することができることである。
ただあの空間に浸ろう。そして、思い思いに映える写真を撮ろう。それがスペクタクルな展覧会なのだから。
小形道正
小形道正