青森県の十和田市現代美術館で、百瀬文の個展「口を寄せる」が12月10日に開幕した。会期は2023年6月4日まで。
同館は東北初の現代美術館として2008年に開館。草間彌生、奈良美智、ロン・ミュエクなど著名な作家の常設展示や、西沢立衛による特徴的な建築でよく知られる。同時に、日本を拠点とする中堅アーティストの展覧会を積極的に開催してきた。同館館長の鷲田めるろは、「これから活躍していく作家を紹介したい」と語るが、約10年ほどのキャリアがある百瀬の個展も、こうした美術館の指針に沿うものだと言えるだろう。企画は同館学芸員の見留さやか。
百瀬はこれまで主に映像を用いて他者とのコミュニケーションを描き、そこに生じる不均衡を鋭くとらえる作品を発表してきた。身体・ セクシュアリティ・ジェンダーを巡る問いを追求し、そのなかで度々取り上げられてきたのが、本展が焦点を当てる「声」だ。
本展タイトルは「口を寄せる」だが、そこから人々はどんなイメージを思い浮かべるだろうか。キスのように身体を他者に近づける親密さや官能性かもしれないし、その行為がときに孕む暴力性かもしれない。開催地である東北地方の「イタコ」が死者の声を生者に伝えるときの「口寄せ」も発想されるだろう。本展ではこうした声の持つ、異なるもの同士をつなぐ媒介/メディアとしての特性の面白さ、不可思議さに鑑賞者を引き込む作品が、美術館の展示室やカフェ、中庭で展開される。
展示室に入ると、突如暗い空間が広がる。どれほどの広さなのか、どこに行けばいいのか、作品はどこにあるのか。晴眼者であれば普段の美術鑑賞時に頼っている視覚が情報をうまくとらえられず、戸惑いを感じるかもしれない。少し経てば次第に目が慣れてくるのだが、こうした環境における鑑賞者自身の身体感覚の変化が、すでに作品の重要な要素として始まっている。
新作サウンド・インスタレーション《声優のためのエチュード》(2022)は、女性の声優が少年役を演じるという、日本のアニメーションではよく行われていることから着想された作品。薄暗い部屋に、「これは僕の声です」などの声が響き、それに合わせてひとつの灯がピカピカと光る。その前にスタンドマイクがある様子は、さながらレコーディングスタジオのようだ。
「これは僕の声です」は一定の感覚をあけて繰り返されるが、少しずつ発声の仕方やトーンが変化していき、主語が「僕」から「私」へ、「声です」から「声ではない」へと移行する。同じようなセリフでもまったく違う人物像が脳内に立ち現れ、ひとりで様々なキャラクターを演じ分ける声優の技能に改めて驚く。
本展について、百瀬は以下のように説明する。
「十和田市現代美術館で大規模な展示を開催するにあたり、これまでやったことのないことをしてみたいと思いました。大きな空間を声を響かせるための伝導装置として使い、映像そのものを見せることなく、声から鑑賞者がどのような映像を思い浮かべるのかという、逆の発想で何か経験を作れないかなと考えた作品です。
声優というのは、アニメのキャラクターを自立させるために、自身の身体性を除去しなければいけないというアンビバレントな存在です。今回の作品では展示室内にマイクを置いて、そこに何らかの気配を感じさせるようにしました。女性の声優は少年の役を演じることがあり、声だけは男性と女性のあいだをすごく自由に行き来することができる、そういう職能を持つ人だと思います。
(作品では声優に)少年から女性へと徐々にグラデーションを変化させながら、同じセリフを繰り返してもらっています。そのなかで主語が変化し、反復する音楽的な構造からエチュードというタイトルをつけています。同じフレーズを聞いているうちに、私たちは何をもって人の性別を判断しているかが徐々に曖昧になり、わからなくなっていく。それは声のテクスチャーによるものなのか、それとも主語の違いによるものなのか。ジェンダーがひとつの構築物であるように、声も社会的な構築物なのではないかということを、体験してもらえれば」
野沢雅子が演じる『ドラゴンボール』の孫悟空、緒方恵美が演じる『エヴァンゲリオン』の碇シンジなど、ジェンダーを越境する配役の事例は日本では事欠かない。しかし『アニメと声優のメディア史 なぜ女性が少年を演じるのか』(青弓社)という著書がある研究者の石田美紀によると、こういった配役は海外では当たり前ではないという。日本で女性声優が少年を演じるという習慣のルーツは、GHQによる占領期のラジオ番組にまで遡れるそうだが、こうした労働的・商業的観点や、日本において「少年性」や「フラジャイルな存在」に何が求められてきたかというイメージをめぐる欲望も大いに関係しているだろう。
また声優やアナウンサーのような職業ではなくとも、多くの人が日常的に「声を作っている」のではないだろうか。話し方や音の高低など、誰といつ話すか、どのような印象を生みたいかによって、意識的ないし無意識的に変化させているはずだ。特に日本の成人女性は他国に比べて声が高く、それには「女らしさ」に求められる規範が関係しているという研究もある。
本作はこのような「声」のあり方を通して、男女二元論が自明視されるようなジェンダー観を揺さぶるとともに、「声」と身体イメージの戯れを鑑賞者に提示する。
なお、声の出演は一木千洋、展示構成は小田切駿、音響は稲荷森健が担当。小田切は青森県出身、本館を設計した西澤らのSANAAで経験を積んだのちに独立した。
「この美術館は明るくて街に開けたアートルームの集合体というのが特徴で、冬に雪が積もるとさらに明るくなっていく。いっぽうで今回の作品では暗い部屋にする必要があり、光と影、そして音という2つの表現が重要でした。鑑賞者が真っ暗な空間に徐々に慣れるように通路のような空間を作るなど、個々人の時間のなかで空間を認識できるようにしました」(小田切)。
《Social Dance》(2019)は10分33秒の映像作品。ベッドに横たわる顔の見えない女性と男性が手話で話し、痴話喧嘩のようなやりとりになる。耳が聞こえない女性は自身の不満を語るなかで手話の表現も大きく激しくさせていき、男性はそれをなだめるように女性の手を取り自身の手を重ねる。それは安心させるような身振りとも、女性の発話を制止するような横暴な身振りともとれる。こうした暴力/非暴力の不可分さや曖昧さは、多くの人にとって身に覚えがあるのではないだろうか。
「男性が手を握りしめると、彼女は話せなくなる。ひとつの行為が複数の意味を生んでしまったり、愛情と暴力が重なり合ってしまう瞬間が日常には溢れているかもしれない。そういったところを切り取るような作品になっています」(百瀬)
《定点観測(父の場合)》(2013–14)は、百瀬が用意したアンケート用紙の質問に父親が回答し、それを読み上げていくことでひとつの文章のように感じられる作品だ。「回答は父親が自身の意思で書いたものだが、後半になると娘である私がまるで父親の身体を借りて話しているようになっていき、私が父親に言えなかったことを伝えている側面もある」(百瀬)という本作は、声とはいったい誰の所有物なのかを問いかける(なお、質問の中には「イタコ」に言及するものもあり興味深い)。
館長の鷲田は百瀬の作品について「白黒をつけたら楽なところを、白黒つけずに丁寧に向き合っている」と評し、「男か女か、暴力か否か、ある行為は自発的なものなのか強制されたものなのか。いま、こうした曖昧さに向き合うことは重要なのではないか」と語る。
担当学芸員の見留が「百瀬さんの作品を見ると痛みを感じることがある。それはなぜかと考えると、自分を重ねることが多かった」と語った言葉にも共感を覚えた。百瀬の作品は「媒介/メディア」の成立について俯瞰的に探求するものであると同時に、鑑賞者と何かしらの事象のあいだを媒介し、感覚や心を生々しく揺さぶってくる。
本展はほかにも、美術館の壁に掲示された電話番号に電話をかけてみることができる体験型の作品や、初期の映像作品、CGデザインを用いた新作の平面作品などを展示。声と身体、そしてコミュニケーションをめぐり、自分の感覚と社会的構造を行き来するような作品をぜひ体験してほしい。
また、十和田市現代美術館のカフェやサテライト会場「space」など数か所で、青柳菜摘 「亡船記」が12月18日まで開催中。こちらもあわせて訪れてみてはいかがだろうか。
【参考文献】
・石田美紀『アニメと声優のメディア史 : なぜ女性が少年を演じるのか』青弓社、2020年
・「好書好日」「アニメの少年、女性が演じるのはなぜ? 「アニメと声優のメディア史」石田美紀さんインタビュー https://book.asahi.com/article/14166035
・山崎広子『8割の人は自分の声が嫌い 心に届く声、伝わる声』KADOKAWA、2014年
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)