公開日:2023年5月19日

磯崎新はこうして水戸芸術館を創った:建築家・青木淳の講演会+展示レポート

昨年逝去した世界的建築家の磯崎新の代表作のひとつ、水戸芸術館で建築家の青木淳の講演会「水戸芸術館と磯崎新と私」が行われた。その抜粋を、開催中の「磯崎新ー水戸芸術館を創る」展の会場風景とともにお届けする。

左から講演する青木淳、水戸芸術館の塔、磯崎新(Courtesy of the Pritzker Architecture Prize)

「磯崎新ー水戸芸術館を創る」展を開催中

2022年12月に死去した建築家の磯崎新(享年91)は、美術館建築の名手として知られた。手掛けた施設は群馬県立近代美術館(1974)、ロサンゼルス現代美術館(1986)、北京の中央美術学院美術館(2007)など世界各地にわたり、そのひとつが現代美術ギャラリーのほかに劇場とコンサートホールを備えた複合文化施設の水戸芸術館だ。市政100年を記念して1990年に開館した同館は、水戸の文化拠点として賑わいを生み、チタンに覆われた未来的な外観の塔は街のシンボルとして広く親しまれている。

南側から見た水戸芸術館
水戸芸術館の塔

その建設経緯を振り返る展示「磯崎新-水戸芸術館を創る」が6月25日まで同館で開催中だ。同館が2019年に開催した「磯崎新|水戸芸術館 縁起」展を再現し、磯崎のスクリーン版画作品や設計当時の資料なども紹介する内容で、関連プログラムとして建築家の青木淳による講演会「水戸芸術館と磯崎新と私」がこのほど行われた。

「磯崎新ー水戸芸術館を創る」の会場風景
「磯崎新ー水戸芸術館を創る」の会場風景より、左から磯崎のシルクスクリーン版画作品《水戸芸術館》(1990)、同(1988)

美術・音楽・演劇にまたがる複雑な施設

青木は1956年神奈川県生まれ。東京大学工学部建築学修士修了後、磯崎新アトリエに勤務し、水戸芸術館やブルックリン美術館増改築(1991、ニューヨーク)などを担当。芸術館の建設時は現場責任者として水戸に2年以上常駐し、設計から竣工まで関わった。1991年に独立後は青森県立美術館(2005)やルイ・ヴィトンの一連の店舗などの設計を手掛け、日本を代表する建築家のひとりとして活躍している。リニューアルと新館の設計を行った京都市京セラ美術館(2019、西澤徹夫との協働)の館長、東京藝術大学建築科教授も務めている。

稀代の建築家は、いかに美術と音楽、演劇の3分野にまたがる複雑な施設を構想し、創りあげたのか。人前で磯崎について話すのは初めてだという青木の講演から抜粋をお届けする。

青木淳による講演会風景。スクリーンに映されているのは、磯崎新が描いた水戸芸術館の建物配置案のスケッチ

講演は、青木が磯崎の許で仕事を始めた1982年前後の回顧からスタート。当時50歳代の磯崎は、設計したつくばセンタービル(1983)がポストモダン建築と呼ばれて賛否両論を巻き起こし、建築雑誌に度々特集が組まれた。青木が現場監理に携わった西脇市岡之山美術館(1983、兵庫)や岩田学園体育館・学生寮(1985、大分)などを手掛けるいっぽう、写真家の篠山紀信と組み世界各地の建築を巡る写真集『建築行脚』(1980-1992、全12巻)の制作にも取り組んだ。同書で取り上げた古代から近代までの建造物は、水戸芸術館の設計に様々な形で引用された。

「磯崎新ー水戸芸術館を創る」の会場風景より、下方に並ぶ書籍は磯崎新+篠山紀信『建築行脚』(1980-1992、六耀社刊、全12巻)

その頃の記憶に残る出来事として青木が挙げたのが、磯崎と師の丹下健三ら9組が参加して1986年に行われた新東京都庁舎コンペ(建築設計競技)。有楽町にあった旧都庁舎(1957)を設計した丹下は現在の高層ツインタワー案を提出し、1等に選ばれた。それに対し、磯崎は対照的に建物の高さを抑えた中層案を提案した。「磯崎さんは丹下事務所で旧都庁舎を担当した経験があり、どう都庁舎はあるべきかを考えていたのだと思う。それまでスタッフと仕事で議論することはなかったが、この時は自分の含め4人ほどが毎朝自宅に呼ばれ、磯崎さんと議論して案がつくられた」と振り返った。

講演する建築家の青木淳

施設の一体・分散・連結を検討

水戸芸術館は、水戸市政100周年事業の一環で市中心部にある元小学校の跡地に計画された。ユニークだったのは当時多く建設された多目的ホールや単独の施設でなく、専用の美術館・劇場・音楽ホールを備えた複合施設として構想されたことだ。市民アンケートの結果を踏まえ、塔や広場、地下駐車場の設置も決まった。1986年に設計者選定がプロポーザル方式(*1)で行われ、磯崎アトリエを選出。88年に着工し90年3月に開館と、設計から竣工まで3年余りという早いテンポでつくり上げられた。

講演会で青木は、設計の初期に磯崎が考えた素案を説明。例えば施設の配置は、劇場・コンサートホール・美術館をひとつの建物に収める「一体案」、個別の建物にする「分散案」、建物を繋ぎ合わせる「連結案」を考案した。

「磯崎さんの特徴と言っていいでしょうか、複合的機能がある建築を作るときに、バラバラに分散させるか、繋げていくか、場合によっては垣根を取っ払って機能を融合させてつくるのが良いのか、そこから出発することが多かった。大体3つくらいの案をつくり、それぞれを設計にまとめてまず提示していた」(青木)。施設へのアプローチや塔の配置、広場のコンセプトなども3案ずつつくられた。市政100年を記念して高さ100mを想定した塔の形も、現在の正四面体を組み合わせた三重らせん形や北極星に向けてレーザー光線を発射するものなど3タイプを考えた。

「磯崎新ー水戸芸術館を創る」の会場風景より、設計初期に考案された3つの塔の形

その後、各案を組み替えるなど検討を重ねた最終設計案を基につくられたのが、芝生の広場を囲むようにコの字型に建物が配された現在の水戸芸術館だ。ピラミッドが載った現代美術ギャラリー、六角形のコンサートホール、円筒形と立方体を組み合わせた劇場など、それぞれ個別にデザインされた特徴ある外観を持っているが、内部は繋がったひとつの建築になっている。水平に連続する建物群は威圧感がなく、同じ石材やタイルが仕上げに使われているため自然な統一感がある。

水戸芸術館、中央のピラミッドがある建物が現代美術ギャラリー

「文化施設は街の中心部でなく、離れた公園や自然の中につくられることが多いが、水戸芸術館は街の一部になることが前提だった。磯崎さんはよく建築を考えるとき、それがイタリアでいうヴィラ(田舎の邸宅)なのか、それともパラッツオ(都市の建築)なのかに大きく分けてつくっていた。つくばセンタービルは都市がない場所にセンター(中心地)をつくる仕事だった。水戸芸術館までは、磯崎さんが街のコンテクストとかみ合いながら設計したケースは余りなかったと思う。都市建築は、既にある街の中にはめ込むので、水戸では建築全体ではなく、個々の建物の秩序が強く出てくる感じだった」(青木)

「逸脱」の建築家と自身を重ね

ポストモダンの流れを汲む西洋建築からの引用は80年代の磯崎がしばしば用いた手法。水戸芸術館では、古代エジプトのカルナック神殿からフランスのシャルトル大聖堂、シェイクスピアが使った伝説的劇場のグローブ座、18世紀の製塩工場まで、多岐にわたる歴史的な建築が参照されている。

水戸芸術館の劇場内部。客席がぐるりと舞台を囲む構造になっている

「影響が大きかった」として青木が挙げたのが、新古典主義を代表する英国人建築家のジョン・ソーン(1753~1837)。現代美術ギャラリーの独立した部屋が連なる空間構成や天井からの採光システムは彼が設計したロンドンのダリッジ絵画ギャラリー(1817年開館)を意識し、その様式を柱などでも引用しているという。「ヨーロッパの伝統的建築が行き詰まるなかで、ソーンは『逸脱』、つまり従来の手法に対し批評を加える建築を試みた。同じように建築が行き詰まっている時代の中で、磯崎さんは自分とソーンを重ね合わせていたのではないか」(青木)。

講演会風景より、スクリーンに映っているのはジョン・ソーンが設計したダリッジ絵画ギャラリー

当時の佐川一信(1940~1995)水戸市長にも言及した。「開館から5年後に急逝されたが、芸術館にとって非常に大きな存在だったと思う」。同市長のもと、基本的にすべて自主企画で運営する全国で稀有な体制が決まり、初代の館長に音楽評論家の吉田秀和、美術部門総監督に評論家の中原佑介らトップクラスの専門家が招かれた。佐川の没後の追悼集に、磯崎は「(佐川市長は)芸術という非生産的なものを市民が求め、それを行政が支援する仕組みを日本でつくることの必要性、そして困難さも隠さず語った」「箱物行政をただ批判してきただけの私にとって、こんな市長と出逢えたのは、ひとつの驚きであった」などと文章を寄せた。

青木は「自主企画だけで活動する面を含め、磯崎さんは佐川市長の考えに共感し、水戸芸術館に特別な思いを持っていた。自分がデザインする以上、どういう空間があればその活動を続けていけるのか、非常に考えて設計されたのだと思う」と話して講演を結んだ。

「磯崎新ー水戸芸術館を創る」の会場風景より、2点とも磯崎新のシルクスクリーン版画《水戸芸術館》(1988)

怖い存在だったけれど……

講演後は大津良夫副館長を聞き手に対談も行われ、バブル期の人手不足に悩まされた工事や、完成した塔を赤白に塗り分けるように運輸省航空局から要請されたエピソードを語った。塔はデータを集めて視認性の高さを説明し、事なきをえたという。また磯崎との思い出を尋ねられ、青木はこう話した。

「アトリエで働いていた時はすごく怖い存在だった。独立して10年近くたった頃、青森県立美術館の設計プロポーザルの1次審査が通った時に、初めて相談に伺った。『10分間だけでも』と言ってお願いしたが、午前中から夜まで時間がどんどん伸びて長時間にわたり色々と教えてくださった。それ以来、困ることがあると磯崎さんに相談に乗って頂くようになった。本当に優しい人だった」

広場に面した彫刻作品のような人工滝(中央)。水しぶきが上がる石を6枚の石壁が両側から挟むデザインは、「水戸」の地名にちなんで磯崎がデザインした

*1──建築物の設計者を選定する際、複数者(社)に提案書を提出してもらい、最も適した設計者を選ぶ方式

永田晶子

永田晶子

ながた・あきこ 美術ライター/ジャーナリスト。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術、建築担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。雑誌、デジタル媒体、新聞などに寄稿。