束芋 神戸の学校 2024 撮影:守屋友樹
「この街は、あの震災から十二年目の年を迎える」
第二次世界大戦末期に作られた秘密兵器を巡る物語を綴った小林エリカの『女の子たち風船爆弾をつくる』(2024)は、こんな一文で始まる。ここで「あの震災」は、軍国主義の台頭につながった関東大震災(1923)を指すのだが、何気なく本を開いたとき、一瞬どの震災だろうと戸惑った。
筆者が錯誤した理由は、近年の地震災害の多さにある。2010年代以降のおもなものだけでも、東日本大震災(2011)、熊本地震(2016)、北海道胆振東部地震(2018)、昨年元旦に起きた能登半島地震。この国は繰り返し地震による夥しい死者と、「あの震災」を思い出す生者を出し続けている。
筆者が経験した「あの震災」は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災(以下、阪神大震災)だ。国内で初めて震度7を観測したこの都市型直下地震は、6434人が犠牲になり、「戦後最悪の災害」と当時言われた。全半壊した住宅は計約24万棟に及び、電気やガスなどライフライン網も破壊され、兵庫県では約32万人が避難生活を送った。筆者もそのひとりで、建物が損壊した自宅マンションを出て勤務先の寮に身を寄せ、1歳の娘は東京の実家に預けた。生活を建て直し、再び一緒に暮らせるようになったのは3ケ月後だった。
避難生活を送りながら、ビルの倒壊現場や負傷者が溢れる病院、広域で火災が発生して多くの焼死者が出た神戸市長田区を新聞記者として取材した。ある女性は、全焼した自宅前で「息子の形見は髪の毛がひと握りだけ」と語った。女性の悲しみと苦悩を表わす言葉が見つからなかった。客観的な「取材者」に徹せるほど自分はタフでなく、かといって当事者の「被災者」でもない気がした。その後、転勤で関西を離れると、後ろめたさや後悔があって長く神戸に行けなかった。
自分のことを書いてしまったが、言いたいのは、震災体験は個人により様々な位相があり、その後の人生に影響もするということだ。いっぽう、災害の記憶を召喚できるのは当事者と限らない。小説家の吉村昭は『三陸海岸大津波』(1970)で明治三陸地震(1896)をつぶさに記録したが、発生時は生まれてもいなかった。
神戸市の兵庫県立美術館で、阪神・淡路大震災30年の企画展「1995 ⇄ 2025 30年目のわたしたち」が開催されている。震災復興のシンボルとして2002年に開館した同館が、約1600㎡ある企画展示室を使い震災に関わる自主企画展を開催するのは今回が初めてとなる。
林洋子館長は「作家の選定に当たり、震災当時この地にいたかは問わないことにした。阪神・淡路大震災のように歴史に残る大きな傷を継承するには、様々な距離感が有効だと考えた」と話す。会場は各作家の個展が連続するような構成で、本展のために制作された作品や新作も多く含まれる。当事者性を超えて「現在」から「過去」を照射し、より多くの人と震災の記憶を共有しようという意図がうかがえる。
展示は、富山出身で阪神・淡路大震災とは直接的な接点のない田村友一郎が能の演目「高砂」を下敷きにしたインスタレーションから始まる。95年5月にマイクロソフト社のビル・ゲイツCEO(当時)が社員に送った文面(来たるインターネット時代を彼は「津波」と呼んだ)、同社のos「Windows95」を操作する様子を映し出す古いパソコンやロゴを想起させる4色の松の画像をはめ込んだフレームが、能舞台に見立てた空間に展示されている。床には、「がんばろう神戸」を合言葉に同年リーグ優勝を果たしたオリックスのイチロー選手(当時)のサインボールや割れた窓ガラスを模したコンクリート片が置かれている。
震災当日の朝刊の展示に意表を突かれた。地震前に制作された紙面に、むろん震災の文字はない。思えば当時は携帯電話も普及しておらず、取材記者は急ぐ記事の送稿は専ら公衆電話を使い、口頭で伝えていた。有名な倒壊した高速道路の写真も報道カメラマンが撮影したものだ。30年前の世界が、この場に呼び戻される。
歴史的出来事や人間の記憶が刻まれた場所のリサーチを基に写真作品を制作する米田知子は、2会場に分けて作品を展開している。
最初の展示室は、前半に2004年に兵庫県芦屋市で撮影した作品が並ぶ。住宅街の空き地、川の両側に立つ集合住宅、カーテン越しに光が差す無人の教室。一見そうと分からないが、教室は被災者の遺体安置所に使われたなど、どの場所も震災の記憶を宿している。続いて1995年に撮影した、地面に散らばる日用品や傾いたビル、瓦礫の山などをモノクロで切り取った写真が展示されている
同県明石市出身・ロンドン在住の米田が被災地に入ったのは3ケ月後で、このとき撮影した写真は10年近く公表していなかった。だが作品化を意図していなかったこれらの写真にも、人間の「不在」がかえって「存在」を意識させる構造は一貫している。1点だけ震源地の淡路島を見つめる少女が映った写真があり、彼女の背後から筆者も島に目を凝らす。
長野県在住の束芋は、浪人生のときに神戸の実家で震災に遭った。本展図録によると、揺れに驚いて飛び起きたが、「『餅でも焼こう』と呑気に腹具合のことを考えて」いた。でも、姉は余震ごとに泣き、揺れに怯える彼女を覚えているという。
これまで震災にかかわる作品を作らなかった束芋が、自分の記憶を掘り起こすように制作したのがアニメーションによる本展の2つの映像インスタレーションだ。《神戸の学校》は、同じ会場に展示している母所有の古いドールハウスをモチーフに、天井と床が反転する教室が描かれる。上から見下ろす少女は、ドールハウスの人形にも、作家自身のようにも見える。
《神戸の家》に登場するのは震災当時の実家。大きな手が屋根を外し、2本の指が斜めに傾く室内を動き回る。何かを確かめるような指は、ある場所に来るとふいと消えてしまう。奇妙な美しい映像は、記憶の曖昧さ、忘却や記憶の変容に作用する時間、それに抗う難しさなど、作家の様々な自問が込められているようだ。
神戸出身のやなぎみわは、現代社会における女性の姿や老いに焦点を当てた作品で知られ、2011年以降は野外劇など演劇活動にも取り組む。展示は、『古事記』のイザナギとイザナミの神話をベースに、東日本大震災後に福島の果樹園で撮影した写真作品と桃をつかむ腕の彫刻、能の映像インスタレーションなどで構成されている。阪神大震災とかかわりない作品群のように最初は感じたが、本当にそうだろうか。
この神話に登場するお馴染みの桃投げの逸話は、女神と男神の別離を巡る「生」と「死」の物語だ。女神イザナミは、日本列島を形作る島々や神を産んだ後に亡くなり、黄泉の国に赴く。連れ戻しに来た男神イザナギは、変わり果てた女神の姿を覗き見て逃げ出し、女神は後を追い、現世との境目の「黄泉平坂」で2人は対峙する。男神が投げつけたのが追跡封じの桃の実だが、両者の応酬は凄まじく、女神は人間を1000人殺すといい、男神は1500人産むと言い返す。
男神の言葉を災いのなかの「希望」、この神話自体にミソジニーを感じるなど様々な受け止め方がありそうだ。後者から敷衍して災害がより露にする非対称性について考える人もいるかもしれない(たとえばDV被害者支援団体のウィメンズネット・こうべは、阪神大震災を機に活動が本格化した)。なお作家は、展示のステートメントでイザナミを「排斥の礫(つぶて)を、戦でなく遊戯に変える技を持つ女神」と述べている。
出品作家のなかで唯一故人の國府理は、作品点検中の事故のため44歳で急逝した。東日本大震災後に制作した《水中エンジン》は、愛車のものと同型のエンジンを水槽に入れた代表作で同館に寄託されている。本作は、津波で電源を失った福島第一原子力発電所事故との関係性を指摘されてきたが、併せて会場に展示されたドローイングを見ると人間の営みと自然環境が共存・循環している詩的な表現に気づく。人間の暴力性と創造性、その両方を作家は見つめていた。
次の展示室で、私たちは再び米田知子の作品を見る。最初の展示室と異なるのは、こちらは肖像写真が多いことだ。モデルは95年1月17日生まれ、すなわち阪神大震災当日に誕生した人たち。作品は、本人が希望するゆかりの阪神間の場所で昨年撮影された。光に包まれたそれぞれの姿に、「生まれてきてくれてありがとう」と思わずにいられない。同時期に関連地域で撮影した夜桜や夜景など風景写真も並び、最後は淡路島での作品が現れて、1室目の展示と対照性をなす。
俳優・ダンサーとして活躍する兵庫県出身の森山未來と、現地にあるモノや日常的な素材を組み合わせた空間作品を手がける梅田哲也。2人が共作した《浮標(ブイ)》は、本展会場と館の内外に点在する。作品の中心に据えたのは、それ自身はかたちを持たない人間の肉声と水や楽器、船の汽笛などの音だ。
会場に置かれた電話から流れる、2人が神戸で出会った様々な人の声。何かが滴り落ちる音がする廊下を歩いて行くと、片側を覆うスクリーンが巻き上がり、大きな窓と向こう側の景色が現れた。館外に出ると楽器をチューニングするような音が随所から湧き出し、運河のような目の前の海と、振り向けば館の建物と背後に広がる六甲山系が目に入る。山を削って埋め立てたここの立地や、「文化復興」を担ってきた美術館の存在、安藤忠雄設計の建物に目を向けさせる作品と言えるだろう。
なお、同時開催中の注目作家紹介プログラム チャンネル15は、本展と連動した森山・梅田の《艀(はしけ)》を公開している(特定日時のみ)。前出の作品を別の面から見るような、ユニークな体験ができるのでお勧めしたい。
本展で興味深いのは、各作家の展示は独立しているにもかかわらず、壁を越えたイメージの複層的な重なりや接続が見えることだ。たとえば、阪神大震災時に無数に割れた「窓」。田村の空間作品の大きなアルミフレームの窓やパソコン・osのウィンドウ、米田が撮影した市役所や人家の破れたガラス、束芋のアニメーションの天地が逆転する窓。これらを目にした鑑賞者は、ラストの森山・梅田作品で安藤建築の外に開かれたガラスウォールと出会うことになる。
あるいは「球体」。やなぎの映像インスタレーション《排斥と遊戯~黄泉平坂~》の女神が曲芸のように操る球(桃)は、ひょっとすると田村作品の野球ボールが飛んできたのではないか。抗議するような身振りを見せる女神が放った球は、館外へ飛び出し、震災30年を機に同館4階「風のデッキ」に新たに設置された青木野枝の球状の彫刻《Offering / Hyogo》になったのではないか。そんな連想も沸いた。
そうした単線的に回収されない想像や思考の広がりを本展が促すのは、作家の多様性と作品選定、配置の妙がなせる業だろう。担当した学芸員も館長の他に6人と多く、震災後に生まれた若手もいる。災害を地域の枠組みに押し込めず、「普遍的なもの」ととらえ直し、「『わたし』はいれかわっても、『わたしたち』は被災の記憶に取り組み続ける」(本展図録)という同館の覚悟を示す内容・布陣だと言える。
全2巻の本展図録にも注目したい。刮目したのは、参加作家だけでなく、担当学芸員や図録の編集者らが同じ震災関連の質問に答えたコーナー。色々な専門性や属性を持つ人がいる美術館の「わたしたち」を外へ伝える好企画だと思う。
別会場のコレクション展Ⅲ「あれから30年―県美コレクションの半世紀」も、堀尾貞治や吉見敏治が被災風景を描いた作品など充実している。1995年当時、前身の兵庫県立近代美術館も被災し、展示室では複数の彫刻が倒れた。その修復過程とよみがえった作品も会場で紹介している。傷ついた作品を災害現場から救出して安全な場所に移し、さらに修復や処置を施す文化財レスキューの取り組みが国や組織を挙げて行われるようになったのが、阪神大震災であった。
本展を鑑賞した翌日、震災当時住んでいた西宮市の集合住宅を25年ぶりに訪れた。米田知子の作品に近くの川が映っていたからだ。行ってみると、地震直後に原稿が送れる公衆電話を求めて走った道は記憶より遠くて、未熟だったあの日の自分を少しだけ許せる気がした。