そういった芸術メディアが時代と共に変遷を被るにも拘わらず、それを支える美術館はフランス革命以来、コレクションと展示、作品修復という機能を屈強に守り抜いてきている。そのため、美術作品から受ける感動が美術館によって「与えられる」と鑑賞者は思い込んでいる。展示室ごとのキャプション、鑑賞ルート、テーマごとの展示室等。そういったものが鑑賞者の解釈を狭め、現代美術鑑賞の受容を狭めているのではないか。
3/17(土)と3/25(日)の2日に分けて行われた「16時間美術館」は、こういって良ければそのアンチテーゼ、鑑賞者自身が選択して作品の価値観や経験から得る「物語」を構築させようという試みであった。何故2日に分けて行われたのかというと、17日は12時から20時まで、25日は13時から21時まで合わせて16時間になるからである。これに加えて、時間限定であるが故、時を重ねて構築された美術館の「歴史」から一時的に離れた方法でアートを体験してもらいたいという狙いが見て取れる。
前置きが長くなったが、17日と25日の全体構成は、大きく異なっていた。前半部(17日)では代官山のヒルサイドテラス付近を中心とした4会場(奈良県代官山スタジオ、ヒルサイドテラスアネックスA棟、ヒルサイドアネックスB棟屋上「温室」、AITルーム)で作品展示と講義が行われた。まずは受付のあるアネックスA棟へ。アネックスA棟の2階は畳が敷かれ、カフェが併設された空間になっている。「作品は?」と思っていると、入り口から奥の方の一角にメアリー・エリザベス・ヤーボロのガムテープによる絵画作品二点とデイヴィッド・ブランディの映像作品がある。その他にもモニターが設置され映像が流れているが、これは日本各地で活動するアート団体の紹介らしい。作品をじっくり鑑賞するもしくは畏まって観るというものではなく、前述のベンヤミンの言葉を借りれば「気散じ(Zerstreuung)」つまり漫然と受け入れるという雰囲気で、確かに普通の美術館では味わえない「新しい」鑑賞方法を体験できた。ただし、「美術館は日常と異なる雰囲気を味わう場所である」と考える人には、馴染める空間ではないかもしれない。しかしながら、人々が集い「コーヒーでも飲みながら」(Bourriaud, Nicolas ”Relational Aesthetics” Les presses du reél, 2002, p9.)展示作品に接する機会が得られ、作品を肴にコミュニケーションを取る機会が与えられていた。
会場中央には畳が敷かれており、靴を脱いでくつろげるようになっている
この階上はレクチャーホールとなっており、4人のゲスト講師(南嶌宏、東谷隆司、中ハシ克シゲ、今福龍太)が入れ替え制で交互に講演を行った。各講演者がアートをどのように捉え、自らの活動に反映しているのかという点を聞くことができ、有益であった。聴講者も、飽くまで主観だが、各年齢層の人がおり、単に「美術好き」な人だけに開かれておらず現代美術に対する広がりを感じた。だが、今回の「時間限定美術館」というテーマと結びつけて話をしていたのは今福だけであった。パンフレットで「もう一つの価値」と謳ってはいるが、各講演者の価値観が異なり、16時間美術館という統一された形式でありながら多様性や差異を認めるという「マルチチュード(multitude)」(Hardt,Michael/Negri,Antonio “Empire” Harvard Univ.press, 2001.)の提示がなされたと言えるかもしれない。
写真は東谷隆司の講演風景
A棟の対面にあるB棟の屋上「温室」には、和田昌宏の彫刻が展示されていた。横長の展示室に合わせた横長の彫刻オブジェに電飾がぐるりと巻き付けられている。展示室前面がガラス張りのため、外からも作品を眺めることができるが、展示室内部ではスピーカーから和田自作の小説が朗読され、遠くから鑑賞するのと展示室内部で鑑賞するのでは全く印象が異なる。遠くからではイルミネーションのような印象を与え、展示室内部では日常を切り取ったかのような和田自作の小説が朗読されるため、家庭で設置されるささやかなクリスマスツリー、つまり急に身近なものへと印象が変わる。
和田の彫刻作品
AITルームと奈良県代官山iスタジオでは、サキサトムとSECOND PLANETのビデオ作品の上映、比嘉豊光の写真作品が展示されていた。どちらもマンションの一室もしくは施設の一室を使用しており、美術館という建築物ではなく日常のスペースを利用もしくは寄生して作品を鑑賞する体験が味わえ、「時間限定」だからこそ可能な展示方法を体現したとも言えよう。一方で美術館のような大きな「箱物」ではないため、会場に収まる展示作品の形態がビデオ作品や写真と携帯性に優れた作品に限定されてしまうという限界も提示している。
上は奈良県代官山iスタジオ入り口、下は比嘉の作品が展示された一室
後半部では西麻布の「スーパーデラックス」というクラブで作品展示とパフォーマンスが行われた。展示作品は17日に引き続き和田の彫刻、アートスペースのアーカイブ映像の常時上映、SWAMP PUBLICATIONによるカタログへの折り込みチラシを制作するパフォーマンス、高嶺格のパフォーマンス、サキとSECOND PLANETのビデオ上映であった。これと併せて、DJによるパフォーマンスが行われた。前半部では4つの会場で作品展示が行われていたが、後半部では単一会場で和田の彫刻を除きスケジュールに沿って作品が限定的に展示もしくは鑑賞できるように構成されていた。客足はスタート時にはわずかだったが、17時以降ゾロゾロと増え始め、トリを迎えると溢れんばかりの観客が押し寄せ、熱気に包まれていた。
一見すると洒落たカフェに来たような雰囲気の会場
その中でも、特筆すべきは高嶺のパフォーマンスであろう。《オニキス・ドリームス》と名付けられたパフォーマンスは会場に置かれた段ボールに高嶺自身が入ってスタート。鳴り響いてた音楽や投影されていたモニターが止み、黒縁メガネの高嶺が箱の中に入ってもがく映像に切り替わり、スピーカーから誰かの話し声が流れる。映像の動きに併せ、段ボールの中で高嶺がごそごぞと動く。どうやら、段ボールの中の生中継映像としてモニターに投影されているようだ。その段ボールがごろりと転がると映し出される映像も切り替わり、背景に流れる音声も変わる。話し声に耳をそばだてると、美術館の在り方について何やら意見を述べているようだ。美術館の現状や、それに取って替わるアートスペースの在り方、指定管理者制度、運営方法等。映像では、その音声が箱に閉じこめられてもがく高嶺の動きにうまくリンクしていた。美術を取り巻く現状(インタビュー音声)がアーティスト(高嶺)にどれほど負担を強いているかを表象するかのように見えた。段ボールはアートの現状を示唆するように、予期せぬ方向に転がる。最後は段ボールを突き破り、高嶺が青空へ向けて立ち上がる映像になり、段ボールに入っていた高嶺自身も段ボールを突き破って幕を閉じた。アーティストによって美術館という窮屈な箱が「打ち破られる」ように。
高嶺格《オニキス・ドリームス》のパフォーマンス風景、下はモニターに投影された映像
SWAMP PUBLICATIONのカタログ用折り込み冊子作成パフォーマンス風景
この日会場では100ページに渡るカタログが配布され、その中には出展作家やアートスペースの紹介、キュレーターたるAITによる論攷、広告を模したアーティストによる作品ページがパッキングされている。これも、パンフレットで謳っている「可変的」、「移動可能」というコンセプトを形にしたものと言えそうだ。
現代アートに常日頃から接していない記者にとって、これほどの観客を引き寄せかつ「面白い」と感じる現代アートの可能性と「恐ろしさ」を垣間見た気がした。前者は「美術館」という畏まった空間でなくとも日常的な場所でアートを鑑賞・体験できるということであり、それに応じた作品形態が増え表現形式が多様化しているということである。そして、作品各々に通底するものが「美」ではなく、近年活躍するニコラ・ブリオーのようなキュレーターが提唱する「関係性」(relational aethetics)やコミュニケーション、親近性に重点を置いている。そのことが、我々の日常生活と密接に繋がったかたちでの作品展示(カフェや部屋の一室での展示)へと導かれるため、飽くまで16時間美術館に限ると、「美術館」という敷居をまたぎやすくしている。この点を逆照射したのが後者で、「安らぎ」「美」といった日常生活では得られないものをアートに求める人々には、「侵犯行為」に映るのではないか。突き詰めてみると、アートが日常を覆い、全てがアート作品になりうるという全体主義的な傾向が見え隠れするのは、記者の思い上がりであろうか。しかしながら時間限定であるため、あくまでも一時的なもので、権威となることを避けようとする姿勢のほうが強い。この「時間美術館」シリーズも今回で最後ということからもそのことが感じられる。
「日常からの逸脱」と思われそうだが、「日常への寄生」という面が打ち出されたように思え、それは美の内実を劇的に変化させるのかもしれない。というのも、16時間美術館という新しい形式が登場することによって、その質的な変化が生じるという過渡期に我々は立ち会っているのだから。