今年で2回目を数える101 TOKYO。秋葉原スクエアで4月2日から4日間にわたって開催中だ。多数のギャラリー、アーティストが出展している現代アートの祭典だが、ここではその中から数人ピックアップして触れることにする。
数多く展示されている平面作品の中でも特に注意を引いたのが、art project franticのブースで出展していた梅沢和木さんによる作品だ。大小の白いパネルにコラージュされた様々なイメージを、カラフルなペイントが覆っている。近づいて見てみると、ペイントの下に埋もれて見え隠れしている部分が、ネット上でよく見かける画像で全て構成されていることが分かる。繰り返し現れる@マークや”データを転送しています”などのメッセージ。そして大きな瞳を輝かせるアニメーションのキャラクターたち。それらが無造作に重なり合い、ひしめき合っている。そんな混沌とした全体像を更に掻き乱すかのように、あるいは統一感を与えるかのように重ねられたアクリル絵の具。この手描きの部分が、色彩豊かな画像コラージュに負けることなく同じレベルで主張出来ているのは、そのどぎついまでの蛍光色ゆえかもしれない。自身の作品について訥々と、しかししっかりとしたビジョンを持って語ってくれた梅沢さん。第一声は、”とにかくネットサーフィンが好き”であった。一日中パソコンと向き合い、モニタ上に現れるいろいろな画像を保存する。その繰り返しで出来上がった膨大なデータフォルダから個々の画像を出力し、パネルに貼っていく。自分が愛して止まないそれらのイメージをこつこつと貼っていくという行為だけでも既に作品として成立しそうだが、ここで更に絵の具で描くという、いわばアーティストとしての伝統的な行為を経ることで、自身の存在をより強く投影出来るのだと言う。大好きなネット上のバーチャルな世界と、自分が生きている現実の世界をリンクさせるための行為であるとも言えるだろう。また、あくまでもネット上でデータとして存在するのみであり、物理的には存在していない、つまり、実際に手に掴んで体験することの出来ない画像に、フィジカルな性質を与えるための行為とも言える。
梅沢さんにお話を伺う中でもう一つ興味深かったのが、ネットに没頭する中で彼の頭に浮かんできたイメージが”横の広がり”だった、というものだ。確かに、パソコンで私たちが日々目にする文字は必ずといっていいほど横書きであるし、新しいタブを開けばそれは右側に(つまり横方向に)追加されていく。この、横へ広がっていく現象を白いパネル上でビジュアル化するために、梅沢さんはまず出力した画像の数々を左右に広がる構図で配置し、更に左右に絵筆を動かしペイントを乗せることで、その形状を強調している。また、画像の集積が部分的にペイントでかき消されている全体像は、梅沢さんの言うところの「deleteキーを押すだけで一瞬にして消えてしまうネット上の世界の儚さ」を表している。その意図通り、後から加えられた無数の蛍光のラインが、目の前にあるイメージが今にも消えてなくなってしまいそうな、そんな感覚を作品全体に与えている。このように、自分の愛するものの集合体に”描く”というフィジカルな行為を重ねることで自己をとことん表現する一方で、更にはコンピュータの中にだけ存在し得るものの本質を突いた作品であった。
自分の愛する対象を作品の中に取り込むという点で梅沢さんと共通していたのが、今年8月にオープン予定のギャラリーeitoeikoのブースに参加していた相川勝さんだ。一見CDのジャケットが整然と並べられている店内のような展示だが、実はこれ、相川さんがジャケットの一つ一つを絵の具で手描きしているのだ。キャンバスにアクリルで描く。そんな画家特有の制作手段に習いながら、出来上がった作品は意表をつくものである。誰もが一度は目にしたり手に取ったことがあるであろうミュージシャンたちのアルバムジャケット。そればかりでなく、中に収められた歌詞カード、解説文、CD表面のデザインに至るまで、全て精巧に再現されている。極めつけは、これもまたミュージックストアでよく見かける視聴コーナーである。再生すると、相川さんがオリジナルの楽曲をコピーした歌声が流れ出す。いわゆるカラオケと大きく違っているのは、伴奏の部分も全て自分の肉声で再現しているところだ。そのためか、聞き慣れているはずの曲が抽象化され、作家独特の世界観に塗り替えられていくような、そんな印象を受けた。相川さんは、複製技術が進歩し続けている現代に向けてこの作品の制作を続けているのだという。CDを買わなくても、パソコンや携帯電話からクリック一つで音楽をダウンロード出来る。あらゆるものが簡単にreproduce(複製/コピー)されてしまう。既成のプロダクトを、敢えて膨大な時間をかけて全て自らの手作業によって”複製”することで、そんな時代を批判していると言える。
相川さんの作品の魅力の一つは、その親しみ易さである。つまり、「私このCD持ってる」「これ聴いたことある」と思わず近づいていってしまう、そんなオーディエンスの心理を功名に突いた作品ばかりなのだ。そのことに触れると、「そこが狙いだったりもします」とのこと。そして、「今後もこのプロジェクトを続けていきたい。まだまだ好きな音楽、描きたいCDが沢山あるんです」と熱っぽく語ってくれた。
相川さん同様、緻密な描写が印象的なのが、CASHIからの参加アーティスト、サガキケイタさんのドローイングだ。気の遠くなるような作業量。結果よりもそこに行き着くまでのプロセスが、彼の自己表現なのかもしれない。ペンによるモノクロの作品ばかりの中で異色を放っていたのは、白塗りのキャンバスとその中央に描かれた赤い円を日本の国旗に見立てた作品。一歩近づくと、赤い円の中がアメリカ国旗、つまり星条旗の模様で構成されていることに気付く。更にクローズアップで見てみると、星条旗のストライプの部分が、群衆の帯と骸骨の帯を交互に置くことで成立っていることが分かる。ここで様々な解釈が生まれてくる。骸骨の群れはストレートに死を連想させるイメージであり、それがアメリカという国の一部を成しており、更にそれが日本という国の一部になっている…両国が血を流し合った第二次世界大戦を彷彿とさせる一方、今現在も続いており、終わりの見えないイラク戦争を示唆するようでもある。そして、アメリカをその中央に据えることで初めて形作られる日本。これは戦後、日本の(主に政治的観点から見た)国民性が、アメリカとの親密な軍事関係に基づいて形成されたという事実を言及するものとも取れる。
本作品についてサガキさんに伺ったところ、政治的メッセージを意図的に込めたわけではないそうだ。サガキさん曰く、見る人が自由にいろいろな方向から解釈出来るような、そんな幅を作品に与えるようにしている、とのこと。本作品も、政治的な意味合いを読み取る者、デザイン性を楽しむ者、ディテイルに注目する者、いろんな人が居ていい、正解は一つではない、ということだろう。展示されていたその他の作品も、複数の解釈が可能なものばかりだった。核爆発によって発生するキノコ雲を描いた作品《Good Morning》。それを構成するのは、ゆるキャラにも似た平和なモチーフたち。核保有国が多数存在する世界、そして日本の隣国である北朝鮮もその中の一国だと主張し、身近にある脅威となっている現代。随分皮肉なタイトルをつけたものだと思っていると「実はこれ、男性の性器にも見えるんです」とサガキさん。ここでタイトルの意味が理解出来たと共に、いい意味での拍子抜けがあった。シンボリズムが何層にも重なっているサガキさんの作品は、シリアスな部分と遊び心が絶妙なバランスで共存していた。
今回お話を伺った三名、スタイルは大きく違えど、どの作品にも現代社会を批判するなり、その現実を突きつけるメッセージが込められていたように思う。それを前面に押し出すのではなく、自己表現の中にうまく取り込みさらっと提示してしまう辺りが、現代を生きるアーティストならではの技かもしれない。バーチャルなコラージュ、既製品の模写、象徴的なイメージ。これら全て、作家自身と彼らが生きる時代を同時に映し出す、ダブル・ポートレイト(二重の肖像画)とも言えよう。彼らの作品はもちろん、その他多数の現代作家による才能がひしめく101 TOKYO。今週末、秋葉原まで足を伸ばしてみてはいかがか。