公開日:2024年5月12日

「百年後芸術祭〜環境と欲望〜内房総アートフェス」レビュー。私たちがいま体験すべき「目的地のないツアー」と、その手引き(評:近藤亮介)

今年初開催。内房総5市の風景を舞台とした芸術祭を美術批評家・キュレーターの近藤亮介がレビューする。会期は3月23日〜5月26日

槙原泰介《オン・ザ・コース》「干潟を歩く」ツアーの様子

百年後への眼差し

現在、千葉県誕生150周年記念事業の一環として「百年後芸術祭〜環境と欲望〜内房総アートフェス」が開催されている。これは千葉県の内房総5市(市原市、木更津市、君津市、袖ケ浦市、富津市)による初の地域芸術祭で、木更津市で農・食・アートの複合施設「クルックフィールズ」を営む音楽家の小林武史が総合プロデューサーを、「いちはらアート×ミックス」など各地で地域芸術祭を手がける北川フラムがアートディレクターを務める。

地域芸術祭には、土地の歴史・文化をリサーチしたり、住民と協働したりする作品が見られるが、本芸術祭においても各作家が独自の視点から内房総にアプローチしている。たとえば、富津市では、岩崎貴宏《カタボリズムの海》が、海苔と醤油という有機物を素材に用いて、埋立地をメタボリズム(新陳代謝)の観点から再考する。武藤亜希子《海の森―A+M+A+M+O》は、地域住民とともに縫った布とぬいぐるみをキッズルームのように構成して、干潟に広がるアマモ場の豊かな生態系を表現している。

展示風景より、岩崎貴宏《カタボリズムの海》 Photo by Osamu Nakamura
展示風景より、武藤亜希子《海の森―A+M+A+M+O》 Photo by Osamu Nakamura

君津市では、深澤孝史《鉄と海苔》が、現在の風景をかたちづくった製鉄所の労働者と海苔養殖の漁具となるマテバシイがともに九州からやって来た事実を開示することで、鑑賞者に土地の歴史を想像させる。また、袖ヶ浦市では、キム・テボン《SKY EXCAVATOR》が、東京湾アクアラインでの体験に着想を得て、日用品を緻密に組み合わせた宇宙船指令室を出現させ、私たちを未来へ誘う。

展示風景より、深澤孝史《鉄と海苔》 Photo by Osamu Nakamura
展示風景より、キム・テボン《SKY EXCAVATOR》 Photo by Osamu Nakamura

これらの作品からは、埋め立てと東京湾アクアラインという2つの巨大事業が地域に大きな影響を及ぼしてきたことがわかる。1950年代以降、千葉県は千葉市から富津市までの臨海地域を埋め立て、第1次産業から重化学工業への転換を推進した。君津市では1960年代の製鉄所進出によって人口が急増し、富津市では1978〜90年頃に埋め立てが行われ、江戸時代から続いていた海苔養殖が大幅に縮小された。いっぽう、1997年に開通した東京湾アクアラインは、都心から遠く離れた内房総のイメージを塗り替えた。特に都心へのアクセスが向上した木更津市や袖ヶ浦市では、大規模な商業施設や住宅地が建設され、観光客と移住者がともに増加している。

アートをきっかけに内房総の歴史を振り返りつつ、これからの100年を考えることが本芸術祭のテーマである。もっとも地域の歴史・文化を学ぶだけなら、会場となっている公民館や記念館の常設展で事足りる。そこに作品が挿入されるからには、過去の出来事を、ただガラス越しに眺めたり懐かしんだりするのではなく、現在そして未来に連なるものとして肌で感じられなくてはならないだろう。実際、上述した作家たちはそれぞれが独特な方法で土地と丁寧に対話し、内房総の現在地を見定め、未来像を呈示していた。

「環境」と「欲望」は対立関係にない

ところで、本芸術祭には「環境と欲望」というサブタイトルが付けられているが、このレトリックには注意が必要である。というのも、本来は対をなさない言葉を対置することで、両語の印象を操作しているように思われるからだ。つまり、環境は無垢な自然を、欲望は利己的な人間を示唆している。開催概要で「『環境と欲望』を両立させ、共振させていくにはどうすればいいのか?」という問いが発せられるように、このサブタイトルは、いわば自然と人間の二項対立を前提としている。たしかに欲望には環境を破壊してきた側面もあるが、私たちを取り巻く環境は自然と人間が相互に作用しあって築かれてきたものであるし、環境を改善しようとする気持ちもまた欲望であることを忘れてはならない。

このことをはっきり認識させてくれたのは、槙原泰介の《オン・ザ・コース》(木更津市)と中﨑透《沸々と 湧き立つ想い 民の庭》(富津市)である。《オン・ザ・コース》は、江戸時代に建てられた「紅雲堂書店」を会場に用いたインスタレーションと、小櫃川河口に広がる盤洲干潟を歩くツアーで構成される。前者では、干潟をゴルフコースに見立てた映像作品を中心に、ドローイングや地図、フラッグ、長靴などが展示され、また本棚には関連書籍が並べられている。後者は、作家とゲストとともに映像作品が撮影された干潟を実際に散策するツアーである。

展示風景より、槙原泰介《オン・ザ・コース》 Photo by Osamu Nakamura
槙原泰介《オン・ザ・コース》「干潟を歩く」ツアーの様子

いっぽう、中﨑の《沸々と 湧き立つ想い 民の庭》は、陸地と埋立地の境界に建つ富津公民館を中心に、住民のインタビューを基にしたエピソードとオブジェクトを配置した巡回型インスタレーションである。数十あるエピソードでは富津の歴史と不可分な思い出が語られ、それを辿っていくうちに鑑賞者は公民館から出て、隣接した公園内を歩く《Another Story》と題されたツアー型作品に参加する。

会場風景より、中﨑透《沸々と 湧き立つ想い 民の庭》 Photo by Osamu Nakamura
中﨑透《沸々と 湧き立つ想い 民の庭:Another Story》のツアー中に見える光景

一見したところ、槙原と中﨑の作品は対照的に映る。槙原は干潟で自然の地学的・生態学的な営みを観察し、中﨑は埋立地で人間の主観的な物語に耳を傾ける。だが、彼らは自然あるいは人間の代弁者になろうとしているのではない。槙原は干潟で空想上のゴルフを楽しみ、中﨑はエピソードをネオンや備品で彩るように、見聞きしたものを、ユーモアを交えて作品へ変換することで、自然と人間、他者と自己の境界をぼかしていく。

そうした作家の感覚を鑑賞者へ効果的に伝えているのが、両作品に共通する「ツアー」という要素である。地域芸術祭においてツアーという形式自体は珍しくない。作品が広範囲にわたって点在する地域芸術祭では、しばしばツアーが企画され、多くの作品を短時間で効率よく鑑賞することができるようになっている。しかし、本稿が注目するのは、作品内部に取り込まれたツアーである。作品としてのツアーは鑑賞に時間を要するゆえに非効率的であり、一般的な観光ツアーとはまったく別様に展開される。

地図やガイドブックにとらわれないツアーの方法

そもそもツアーとは何か。「ツアー(tour)」は「回る(turn)」に由来する言葉で、もともと仕事の「当番」を意味したが、17世紀に「あちこちを回ること、周遊すること。周回または連続したいくつかの場所の訪問を含む小旅行または旅」を表すようになった(OED第二版)。当時は交通手段が十分に発達していなかったため、ツアーを行うのは、複数の土地で商売や公演をしなければならない人々に限られていた。ツアーと似た意味を持つ「トラベル(travel)」が「骨折り、労働(travail)」に由来するように、旅は仕事の必要から生じた、労苦を伴う行為だった。

そんななか、イギリスでは教育を目的とするツアー、すなわち「グランド・ツアー」が始まる。グランド・ツアーとは、高等教育を受けた上流階級の子息たちのあいだで実践された個人修学旅行で、彼らは数ヶ月から数年かけて大陸ヨーロッパ各地を訪れ、歴史・芸術について見聞を広めた。ただ、そこにはダンスや観劇、ギャンブルなどの気晴らしも含まれた。彼らの移動もアルプス越えなどの困難を伴ったに違いないが、グランド・ツアーをきっかけに旅行は娯楽と結びついた。そして、18世紀後半には中産階級を中心にイギリス国内の風光明媚な土地を目指すピクチャレスク・ツアーが流行し、さらに19世紀になると鉄道による団体旅行が可能となり、ツアーが大衆化した。これが現代の観光ツアーの源流である。

しかし、槙原および中﨑が作品に取り入れたツアーは、この系譜から逸脱する。なぜなら、それは「目的地のないツアー」だからだ。彼らのツアーは日常と連続していて、なんとなく始まり、なんとなく終わる。《オン・ザ・コース》の干潟を歩くツアーでは参加者にマップが配られるが、そこには地形だけが記されており、スタート地点や目的地は見当たらない。ツアーの道中では、水生生物や外来植物の棲息地、放置された浸透実験池や漂着ゴミ、さらに槙原の立てたフラッグなど、いくつかの「見どころ」が紹介される。とはいえ、ほとんどの見どころは、ランドマークやモニュメントと呼ぶには控えめで、目的地と呼ぶには流動的である。

実際、干潟を歩くツアーは、毎回ほぼ同じルートを辿りつつも、日によって解説される内容や場所が異なる。こうしたツアーの一回性は、作品のモチーフとなったゴルフにも暗示されている。槙原が語る通り、もともとゴルフは自然の力によってかたちづくられた土地をコースに見立ててプレーされるものだった。特に好まれたのは「リンクス(links)」と呼ばれる海岸沿いの砂地や草地で、砂地の障害物「バンカー」はもともと牧羊が海風を避けるための窪地だった。つまり、ゴルフプレイヤーにまず求められるのは、体力や技術ではなく、地形や天気を注意深く読む力だった。干潟を歩くツアーの参加者に期待されるのもまた、泥に足を取られ、風に吹かれながら、環境にじっくり身を浸すことにほかならない。

《沸々と 湧き立つ想い 民の庭:Another Story》も、参加者に手渡されるのは簡単なマップだけである。そこにはエピソードの設置された場所と順路が記されているが、解説は一切なく、参加者は目的地を知らないままツアーへ出ることになる。ただ、そのツアーが行われるのは干潟ではなく公園である。そこでは見慣れない生物が顔を出すこともなければ、足元がおぼつかなくなることもない。埋め立てられた地面と同じく、目の前の風景は安定している。にもかかわらず、ときに揺らいでいるように感じられるのは、そこに長年暮らしてきた住民の声が挿入されているからだろう。埋め立ての賛否、漁業の課題、観光の不満──飾らない言葉と穏やかな眺めとのあいだに生じるギャップに、鑑賞者は違和感を覚えずにはいられない。

《オン・ザ・コース》と《沸々と 湧き立つ想い 民の庭》が仕掛けるツアーとは「目的地のないツアー」である。ツアー参加者は、絶景や美食を目指す代わりに、ぶらつく時間の中で環境と欲望がないまぜの状態を体感する。それは娯楽性に欠けるかもしれないが、通常の観光ツアーでは得られない経験である。百年後にも明確な目的地はない。だからこそ、私たちは地図やガイドブックにとらわれないツアーの方法を身につける必要がある。

関連イベント
トークセッション『アートとツアー』
日時:2024年5月19日(日)13:00~14:30
会場:木更津駅東口 インフォメーションセンター2F
入場無料・予約不要(定員50名)
<登壇者>
近藤亮介(美術批評家/ランドスケープ史)
中﨑透(内房総アートフェス参加作家/富津エリア)
槙原泰介(内房総アートフェス参加作家/木更津エリア)
https://100nengo-art-fes.jp/event/makihara_talksession/

近藤亮介

近藤亮介

美術批評家、キュレーター。1982年大阪市生まれ。ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン美術学部(Slade School of Fine Art)卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。ハーバード大学デザイン大学院(Graduate School of Design)フルブライト客員研究員、東京大学教養学部助教を経て、現在、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科非常勤講師。専門は美学芸術学・ランドスケープ史。日英米の芸術・造園の研究を軸に、理論と実践の両面からランドスケープを生活環境として読み解く活動を展開している。編著に『セントラルパークから東京の公園を見てみよう』(東京都公園協会、2023)、企画・キュレーションに「アーバン山水」(kudan house 、2023)など。