「水墨の魔術師 浦上玉堂 真の文人画家、ここにあり」

栃木県立美術館
12月22日終了

アーティスト

浦上玉堂
浦上玉堂(1745−1820)は武士でした。その玉堂をなぜ「真の文人画家」といえるのでしょうか。ちょっと横道に逸れますが、「南画」という少々厄介なジャンルがあります。一般的には「中国の南宗画に由来する江戸時代中期以降の画派・画様の用語であり、文人画ともいう」と説明できます。つまりは、「南画」とは中国の「南宗画」を画家が真摯に受容し、そこに日本的な解釈を加味することによって成立したジャンルであり、「文人画」ともいうのだと。

はて?それでは「文人画」ともいわれるのはなぜなのでしょうか。「南宗画」の受容期であった18世紀初頭以降、儒教や禅宗、漢籍文が流行し発展していきます。そして、それを担うさまざまな階層の「文人」と呼ぶにふさわしい人物たちと「南宗画」から発した「南画」との結合がその流行を促したのです。ただ、「文人」であり「画家」であり、さらに「士大夫(高級官僚)」でもあるという階層は、日本にはありませんでした。ですが、「文人」の多様性を前提として、中国とは異なる側面を意識し、その継承と独自性を併せて強調するならば「文人画」という言葉は非常に有効なものとなるでしょう。

玉堂は、岡山藩の支藩鴨方藩士として勤務していました。戦いのない時代ですから、その仕事は藩主や領民のためであり、まさに役人(官僚)であったといえます。江戸詰めも経験し、多くの著名な儒学者や初期文人画家・中山高陽(1717−1780)や北山寒巖(1767−1801)、木村蒹葭堂(1736−1802)、司馬江漢(1747−1818)らとも交友しました。また、琴の名手でもあった玉堂は、しばしば雅会を主催して自ら弾琴し、詩を詠み、それを揮毫し、七絃琴の製作までもしていました。となれば、玉堂を「文人」と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。そして玉堂は、50歳の時に全ての役職を捨て、各地を遊歴しながら本格的に絵を描くようになったのですから、まさに「真の文人画家 浦上玉堂、ここにあり」でしょう。

倉敷の素封家大原家からの受贈作品を含めた約90点による玉堂の画事をたどる旅に是非ともお越しください!

スケジュール

開催中

2024年10月26日(土)〜2024年12月22日(日)あと31日

開館情報

時間
9:3017:00
休館日
月曜日
11月4日は開館
11月5日は休館
入場料一般 1200円、大学生・高校生 600円、中学生・小学生以下 無料
展覧会URLhttps://www.art.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/t241026/index.html
会場栃木県立美術館
https://www.art.pref.tochigi.lg.jp/
住所〒320-0043 栃木県宇都宮市桜4-2-7
アクセスJR宇都宮駅西口より関東バス「桜通十文字」下車徒歩7分、東武鉄道東武宇都宮駅東口より関東バス「桜通十文字」下車徒歩7分
電話番号028-621-3566
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