日本政府が新型コロナウイルス感染拡大防止のため、大規模なスポーツや文化イベントの自粛要請を行ったのが2月26日。そこから多くの美術館が休館し、イベントは中止となり、実空間でのアーティストの作品発表の場は減少している。
いっぽう世界各地では国、市、個人といった様々なレベルでアーティストに対する緊急助成金が立ち上がっているなか、東京都は「活動を自粛せざるを得ないプロのアーティストやスタッフ等が制作した作品をウェブ上に掲載・発信する機会を設ける」という支援策を打ち出した(ウェブ版「美術手帖」)。
アーティストはこの状況下で何を思い、東京都のアーティスト支援策についてどう考えているのか。全8回の連載「いま、何を考えていますか? アーティストに4の質問」では、東京圏で活動するアーティストに4の質問を投げかける。
第2回は、アーティストの百瀬文。
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もともと自宅をスタジオにしている自分にとって、アーティストとしての日々の営みは、表面的に見ればなにも変化していないかもしれません。メールをチェックしながら洗濯物を干し、編集作業の合間に冷蔵庫にあるもので昼飯を作る。ぎりぎりでリモートワークに対応してくれたバイト先の案件を合間に処理しながら、マスクをつけて夕飯の買い出しに行く(玄関を出る時のわずかな緊張感)。
しかし現在自分が送っている、そのような比較的感染リスクの少ない生活は、スーパーの従業員やAmazonの配送ドライバー、そういった人々にリスクを肩代わりさせることで成り立っているに過ぎません。「普通の日常を送る」行動が「何かに加担する」ことに強制的に接続させられるような感覚。まるであの3.11直後の原発をめぐる状況下で起こった感覚が、さらに複雑化した状態で強く蘇ってくるのを感じました。
そしてそれは「自分」と「他者」の出会い頭の一瞬のかたちすら変えてしまった。マスクをつけていない人とスーパーですれ違う時、一瞬体にピリッと緊張が走り、身構えてしまう。自分の中にこんな排他的な感情は今までなかった、いや、あったけど気づかないふりをしていたのでは? 結構ショックでした。マスクは、いわばそのような他者の選別のまなざしを表面で無効化するためのバリヤーとして機能し始めます。いずれマスクをつけなくて済む世界がやってきたとして、そのときわたしの顔の表面からこのバリヤーは消えているのでしょうか?
気がかりというか、ある意味でこれはちゃんと自分が今まで向き合ってこなかった問題がようやくここで露わになっただけなのかもしれないですが、「展覧会」という形式が自明なものであるということ自体、考え直さなければいけないのではないかと思っています。この事態はある意味で「作品は、誰かに見られなければ作品たりえないのだろうか」というおそらく今まで何度も繰り返されてきた問いを、現実的なフェーズで再考する機会なのかもしれません。見られない展覧会を嘆くのは人間だけだということです。無人の映画館で流れている映画を想像するとき、それはいったいどんな時間だと言えるのだろうかということです。
また、自身の制作方法を振り返ってみても、わたしの作品は、人と人との「接触面」で起こるコミュニケーションの矛盾やゆらぎを主題として扱っていました。物理的に人と人が接触できないこの状況下では、そのようなことを扱う作品はもしかしたら単なるノスタルジーとして見られるようになってしまうのかもしれない。それは極端な想像かもしれませんが、しばらく新作を作ることができなくても、できるだけ時間をかけて思考を前に進めたいと思っています。
この原稿依頼をいただいた時点で、一部メディアは東京都のアーティスト支援策を「アーティストに動画をオンライン上にアップしてもらい、その対価として支援金を支払う」と報道していました(その後さらに変更があり、動画というメディアには限定されない「作品」というかたちになりました)。
この支援を経済的支援と捉えるならば、たしかに今、アーティストの中には仕事を失って困窮している人もいるでしょう。しかし、この東京都の「何か作品を提供する」ことを条件に保証金を払うというプロセスには、「制作」という行為の中に、すでに材料費や制作環境維持費といった諸々の諸経費が含まれているということに対する想像力を感じられませんでした。本来作品のクオリティに必要であるはずの諸経費を削らない限り、アーティストは基本的にプラマイゼロの暮らしを送ることになるわけで、作品に対する誠意とお金を天秤にかけさせるような支援策は理にかなっているとは思えません。
やるならば、この状況下で仕事を失ったアーティストに対し、対価を求めず現金を渡すようにしてほしいと思います。この考え方はアーティストからの提言というより「一市民」としての意見です。アーティストの「作品」という成果物に対して給付がなされるだけならば、それはただの成果主義でしかありません。そうではなく、「今は何も作れなくてもいい。ただ世界が再び動き始めたとき、そこには芸術が必要なんだ」という文化の延命の視点が必要なのではないでしょうか。
わたしがアーティストに対する「動員」のようにも見える個人支援より、ミニシアターやライブハウス、ギャラリー、様々なオルタナティブスペースなどの芸術文化施設・コミュニティに対する支援をまずは優先した方がいいと思うのはそれが理由です。文化にはそれを守り、語る場所が必要であり、そしてその場所がまた次の世代へ向けて歴史をつないでいく。場所のかたちは大きく変わるかもしれませんが、その延命のしかたによっては何かクリエイティブな形式を生み出せるかもしれません。
「いや違う、お金じゃなくてアーティストは今作品を見せる場所がないから、オンラインで見せる場所を作って支援したいんだ」という向きもあるでしょう。しかし、個人的な最近の実感にすぎませんが、わたしは作品を問わず、オンラインで何かを見ることの「代替感」にすこし疲れ始めています。それはモニター越しにそれを見つめながらも、「本当はありえたかもしれないその場所やその時間」に想像力が強引に接続させられ、自分が分裂したかのような感覚に陥るからです。この虚脱感の正体がうまく整理できないうちは、この支援策を自分が利用する理由が見つからないように思えます。
言い方が壮大になってしまうのですが、この状況の中で自分が人類というひとつの「種」のなかの一個体に過ぎないのだ、ということをものすごく久しぶりに考えた気がします。「わたし」という一人の人間の物語よりもはるかに大きなフェーズがそこにはあるということ。人は永い時間を想像するのが苦手なのだと思うし、だからこそ後先構わず環境を汚染したり原発も作ってしまうんでしょうが、自分の命に「ただちに影響がある」ことに対しては必死に情報収集する努力を惜しまない。未来の人の命は想像しにくくても、自分の命に対してはこんなに想像力たくましくなれるんだということに気づいたとき、しばらく何も手につかなくなって、おそらくわたし自身もこれからいろいろな変化をしていくのだろうと感じました。
ひとつ、ある具体的な未来を想像してみます。免疫が作られるかわからないコロナウイルスはおそらく「人類が今後慢性的に感染していく」ウイルスになり、毎年必ずは誰かが一定数死んでいく。そうした世界の中でわたしはある日、高熱と咳に苦しみながら、かつてのように、自分がやりたいことを生涯かけて作品の中で表現する、といったような作家像が自明のことではないことに布団の中で気づきます。でも、今までもずっとそうだったのです。あらゆる疫病のときも、あらゆる大戦のときも、そうやって作家はある日突然死んでいき、言葉を持たない作品だけが残された。作者の身体と、作品が、別々の時間に存在することができるのは、芸術の特殊能力です。
わたしがここ数週間考えていたのは、これは「わたしの」人生であり、「わたしの」作品なのだ、という一つの生命体の切実な想い、現実的な作者としての自分の身体から、どれだけ作品を遠ざけられるかということです。それはまるで、宇宙船から宇宙に向けて射出された脱出ポッドみたいに、途方もない時間を漂い続け、運が良ければどこかの星に着陸するかもしれません。
今後、人類が共生していくかたちそのものをみんなで考えていかなければいけないときに「この状況下でアーティストに何ができるのか」という特権的な問いかけをすることは自分にはできません。人間の身体が、ウイルスと同じようにタンパク質その他の集合体にすぎず、唯一、知性だけがウイルスの持っていないものなのだとしたら、自分が想像したこともない大きさの、顕微鏡と望遠鏡を両方使って未来を捉えなければいけない。先ほどの言葉と矛盾するかもしれませんが、それらを考えるのに、芸術は役に立つのだと思います。
百瀬文
1988年東京生まれ。映像というメディアの構造を再考させる自己言及的な方法論を用い、撮影者と被写体の関係性のゆらぎを扱う。近年の主な個展に「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」(EFAG EastFactoryArtGallery、2020年)、「Born to Die」(switch point、2020年)、「Borrowing the Other Eye」(ESPACE DIAPHANES、ドイツ、2018年)、「サンプルボイス」(横浜美術館アートギャラリー1、2014年)、主なグループ展に「Happiness is Born in the Guts」(Municipal Gallery Arsenał, Poznan、ポーランド、2019年)、「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」(森美術館、2016年)、「アーティスト・ファイル2015 隣の部屋——日本と韓国の作家たち」(国立新美術館、韓国国立現代美術館、2015-16年)など。2016年度アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成を受けニューヨークに滞在。2019年、イム・フンスンと共同制作した《交換日記》が全州国際映画祭(JIFF)に正式招待されるなど、近年国内外で制作や発表を重ねている。
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いま、何を考えていますか? アーティストに4の質問
第1回:会田誠
第2回:百瀬文
第3回:Houxo Que
第4回:梅津庸一
第5回:遠藤麻衣
第6回:金瑞姫
第7回:磯村暖
第8回:高山明