空間を大規模に変容させる作品を手がけてきた現代アートチーム「目[mé]」は、荒神明香(アーティスト)、南川憲二(ディレクター)、増井宏文(インストーラー)を中心メンバーに、不確かな現実世界を人々の実感に引き寄せようとする作品を展開してきた。そんな「目【mé】」の美術館での初の大規模個展「目 非常にはっきりとわからない」が2019年11月、千葉市美術館で行われた。どこからともなく「ネタバレ禁止」の触れ込みが立ち上がり、SNSを中心に大きな話題を呼んだ本展を、美術家、美術批評家の黒瀬陽平がレビューする。
「謎解き」と分断
展示会場は、たくさんの来場者でにぎわっていた。
観客の多くは、展覧会に仕掛けられた「謎解き」を積極的に楽しんでいるように見えた。会期も終わりに近づいた頃だったから、SNSでの評判や口コミなどを通じて展示概要を知り、その「謎解き」を期待して訪れた観客が多かったのかもしれない。
作家と美術館は、会期中に展示の「ネタバレ」が流通しないよう、細心の注意を払っていたらしい【注】。実際、ブロックバスター映画さながらのネタバレ防止戦略は見事に功を奏したようで、SNS上では、「とにかくすごい仕掛けがある」「でも実際に見ないとわからない」といった感想だけが拡散され、順調に動員数を稼いでいた。
不安と興奮がない混ぜになった表情で、懸命に「謎解き」をしていた観客の多くは、そのような事前情報を知って興味を持ち、自分の目で確かめることを楽しみにしていたのだろう。
たしかに、展示会場には「謎解き」をさせるための仕掛けに満ちていたし、きわめて精度の高いインストール技術によって、隅々まで計算されたインスタレーション(とパフォーマンス)が展開されていた。
展示フロアとして使われた美術館の7階と8階は、あたかも展示設営中であるかのように装われており、置かれている備品や作品、養生シートや汚れにいたるまで、7階と8階がまったく同じ空間に見えるように作り込まれていた。
その装いは、展覧会のエントランスである1階からすでにはじまっていたから、それが展示の一部であるのかどうか、会場に足を踏み入れたばかりの観客は戸惑ったことだろう。ちょうど美術館は拡張リニューアル工事中で、建物一部では本当に改修工事が行われていたから、事情をよく知らない観客にとっては、本当の改修工事とインスタレーションの区別が曖昧になってしまう。もちろんこれも、作家の狙い通りである。
そして、決められた時間になると、作業員のような出で立ちをしたパフォーマーが現れ、置かれた備品を動かしたり、壁を移動させたり、何かの作業をしたりする。それによって7階と8階の均衡は一時的に崩されるが、一定時間が経つとパフォーマーたちは動かしたものを元に戻し、また同じ状況が作られる。
1階のエントランスのインスタレーションは、はたしてこれは作品なのか現実なのか、その線引きを曖昧にするために用意されている。好奇心旺盛な観客はすでにここで、「謎解き」に入っていることだろう。そして、7階と8階を行き来しながら見比べることで、どこまでが同じで、どこが違うのか、そもそもこの状況はいったい何なのか……といった、より複雑な「謎解き」がはじまり、時間の許す限り、いつまでもそれに耽っていることができる。なぜなら、物理的に7階と8階を同時に見ることが不可能である以上、何度往復してもすべての対応関係を網羅し、記憶することはまず無理だろうし、時折介入してくるパフォーマーたちのおかげで、適度に状況がかき乱されてしまうからだ。
観客は、このような「謎解き」を存分に楽しんで、満足げに帰っていく。手の込んだアトラクションのような「謎解き」の快楽と、いかにも現代美術らしい自己言及(どこまでが作品なのか?これは本当に作品なのか?)を兼ね備えた展覧会として「こんなに楽しい現代美術展は初めてだ」と、SNSに感想を書き込む。もちろん、ネタバレはなしで。
ふと、素朴な疑問が頭をよぎる。
はたして、この展示の「謎」とは、一体何だったのだろうか。たしかに、ぼくたちは会場で、一生懸命に「謎解き」をしていたような気がする。現実と作品を見比べ、作品と作品を見比べ、作品自体の同一性を疑い、その謎を追いかけていたような気がする。
ぼくたちが普段、「見ている」「わかっている」と思っていることが決して自明でないことについても考えたし、作品や美術館と言われているものの境界線は人工的なものであり、いつでも書き換えられるかもしれないことについても、理解した。見れば見るほど、考えれば考えるほど、「非常にはっきりとわからない」状況が作り出されていることは、もう充分に「わかった」。
でも、ほんとうにそんなことが、この展示の「謎」だったのだろうか。
自分たちが見ている、わかっていると思っていることへの疑問や、作品や美術館といった制度への問いをリマインドする、そんなことのために、この展示はあったのだろうか。
きっと、ぼくが見落としている「謎」があるに違いないと、後日届いた図録に目を通してみた。しかし、そこに新しい情報は何もなかったし、寄稿されたテキストはどれも同じように、「見るとは何か」「世界の不確実さと向き合う」「現実の問い直し」といった、お決まりの文言を繰り返していただけだった。
もう一度、展示を思い出してみる。
一体どれが作品で、どれが作品でないのか、誰が観客で、誰がパフォーマーなのか、その区別がぎりぎりまで曖昧になった会場のなかで、唯一、明確に「作品」だとわかるものが「展示」されている部屋があった。
そこには、おそらく明治〜大正期の油彩画とおぼしき小さな絵画や、江戸期の屏風(円山応挙?)、さらに時代が古そうな掛け軸などが展示されていた。その様子は、この美術館の所蔵作品による「コレクション展」のように見えたが、それを確かめるすべはない。例によってこの部屋も他と同じく設営中であり、まだ作品が掛かっていない壁面や、設営道具や机、養生シートなどが散乱していた。そしてもちろん、この「コレクション展」エリアも、7階と8階でまったく同じ空間になるように作られていた。
誰しも気がついたとだと思うが、もしここに掛かっている作品のどれかが「本物」のコレクションだとすれば、別フロアにあるもうひとつは「偽物」だということになる。
作品はガラスのショーケースで隔てられていたうえに、ショーケースの前には様々な備品が置かれていたので、時代の古い屏風や掛け軸に関しては、それらが本物なのか偽物なのか、判断が難しかった。しかし一点だけ、海辺に遊ぶ人々を描いた小さな油彩画の片方だけは、技術の拙さや、絵具のフレッシュさがはっきりと見て取れ、明らかな「偽物」であるように見えた。
わざわざ「偽物」を制作(模写?)しているということは、もう片方の作品はおそらく「本物」(あるいは本物の精巧な複製)であり、おそらくこの美術館の所蔵作品なのだろう。もし仮に、この美術館の所蔵作品でなかったとしても、「過去の誰かの作品」であることにかわりはない。
ここで、あきらかに「偽物」とわかるような仕上げの甘さを批判するつもりはない。そんなことはどうでもよいことだ。問題なのは、ここに展示された「過去の誰かの作品」たちが、なぜ「この作品」でなければならなかったのか、その根拠、理由、意味についてである。
会場内にはもちろん、図録にも、これらの作品に関する情報、クレジットは一切ない。かろうじて共通点のようなものが認められるとすれば、どの作品も、広義の「風景」にまつわる絵画だということくらいだ。その程度の条件であれば、仮にこの美術館の所蔵作品のなかから選んだとしても、代わりになる作品はいくらでもあっただろう。
つまり、この展示にとって、そして作家にとって、ここに並ぶ作品は、この美術館の所蔵作品であり、風景的なモチーフを扱ってさえいれば、何でもよかったのだ。7階と8階、それぞれ同じ位置にある部屋で、同じような作品が並んでおり、その違いを確かめるように観客を行き来させる状況さえ作ることができれば、誰の作品でも、どんな作品でもよかったのである。
そのことに気がついた時、この展示の「謎」についての、もやもやとした違和感の正体が、はっきりとわかった気がした。
たしかに、この展示には周到に「謎解き」が仕掛けられていた。しかしその「謎」には意味がなく、交換可能で、「謎解き」の状況を作り出すための口実でしかなかったのだ。精緻に作り込まれたインスタレーションによって、観客は7階と8階を何度も往復し、そこに隠れているはずの「謎」を探し求める。しかし実際は、「謎」に意味がないことによってこそ、観客の往復運動が駆動されているのだ。多くの観客を魅了した「謎解き」の誘惑は、「謎」の中身が空っぽであることによって生み出されているのである。
おそらく、本展を評価する者は、「謎」に意味がないことこそが重要なのだ、と主張するだろう。「謎」の意味や答えを見つけて満足するのではなく、終わりのない「謎解き」を繰り返す時間と体験のなかで、見ること、わかることを疑い、感覚や認識が再編されるのだ、と。
しかし、「コレクション展」エリアに展示されていた作品に対しても、同じことが言えるだろうか。言うまでもなくそれらは、それぞれ異なる時代に、異なる作者によって描かれ、この展示とは全く無関係に、それ自体が独立した意味を持つ作品たちである。決して、はじめから意味がなかったわけではない。その作品たちの意味を、文脈を消し去り、ここに展示してあることの根拠を与えず、「ほかの作品でもよかった」状態を作ったのは、ほかならぬこの展覧会なのである。
本来は、意味も文脈もある独立した作品たちを、交換可能な「素材」に貶めていてもなお、この「謎解き」は有意義だと言えるだろうか。「謎解き」の仕掛けさえ機能すれば、「謎」自体は何でもよい、という前提で生み出された状況から、ぼくたちはなにかを思考したり、学んだりできるだろうか。
中身のない「謎」をめぐって、終わりのない「謎解き」だけが繰り返される。したがって、そこで得られる驚きや気づきもまた、中身がない。そのことは、SNS等で拡散された感想やコメントを見ればよくわかる。とある美術ライターは、本展を2019年の展覧会ベスト3に選出し、「ここまで周到に驚かせれば立派なアート」だとコメントしていた。本展の空疎さが、これほどまで見事に表現されたコメントを他に知らない。
作家や美術館が、必死でネタバレを抑制しようとしたのは、戦略としては正しい。なぜなら、ネタバレによって展示の詳細が漏れてしまえば、この「謎」に中身がないことがわかってしまうからだ。「ネタバレ禁止」という戦略のもと、内容のなさを巧みに隠し、動員する。そして、「謎解き」にやってきた観客たちには、「謎」そのものについて考えさせるのではなく、終わりのない「謎解き」の快楽だけを与える。
本展について、2019年のアート界を騒然とさせた『あいちトリエンナーレ2019』(あいトリ)における「表現の自由」騒動と比較し、評価する向きもある。
あいトリでは「表現の自由」という抽象的なテーマをめぐって、本来は現代美術とは無関係、無関心だった人々もこぞって「炎上」に参加し、人々の分断が加速した。それに対して本展は、「そもそもどこまでが作品なのかわからない」という「謎」によって分断の手前にとどまり、「謎解き」によって思考する時間を生み出した、というわけだ。
しかしこのような評価は、本展が生み出すもっとも危険な分断を見逃している。本展が採用した「ネタバレ禁止」の広報戦略と中身のない「謎解き」は、展示を「見た者」と「見なかった者」の間に、深刻な分断を生むのである。SNS上で話題になり、動員が増えれば増えるほど、この分断はますます深いものになる。悪質なのは、本展についての好意的な評価が、この分断を燃料として加速するということだ。
展示を見ることができた観客たちは、「見ればわかる(見なければわからない)」という意識を強く共有することで連帯し、「見なかった者」たちを疎外する。では、展示を見さえすれば、その分断を埋められるのかと言えば、そうではない。「見た者」の一部は、「見てもわからなかった」と感じ、連帯し損ねる。そしてその者たちの一部は、展覧会を批判するかもしれない。
しかし、その批判に対しては「もっと見るべきだ(謎解きを続けるべきだ)」という非難でもって退けることができる。そればかりか、もっと見て、「謎解き」を続けない限り、あなたたちは「見なかった者」である、とすら言うことができるのだ。「謎」そのものに意味がない以上、この分断は決して埋めることができない。
そのような手つきは、近年流行している「ネットサロン」の多くが実践している、カルト的なユーザーの囲い込み戦略とそっくりである。その囲い込みが成功してしまえば、たとえ展示の中身のなさを指摘されても問題ない。「謎解き」は無限にできるのだから、そこから意味のあるものを持ち帰れなかった責任は、観客の側に負わせることができるからである。
たとえば、同様の戦略を試みた展覧会として、2017年に開催された『ブラックボックス展』が挙げられるが、こちらは動員には成功したものの、ユーザーの囲い込みに失敗したことに加え、リスク管理の甘さによって炎上してしまった。そう考えると本展は、広報戦略と連動した「謎解き」を実装することで、ネットサロン的な囲い込みに成功した最初の現代美術展かもしれない。
なによりも巧妙なのは、多くの観客が楽しみ、満足したことがSNS上に証拠として残り、美術館が喉から手が出るほど欲しい動員を稼ぐことによって、同時に起こっていた観客の分断と、批判(批評)の封殺を不可視化したことである。このような戦略を持った現代美術展は、美術館だけでなく芸術祭や商業施設のイベントなど、様々な場所で求められるようになるだろう。
とはいえ、目【mé】の作品がすべて、同様の戦略によって作られているわけではない。たとえば、越後妻有トリエンナーレでの『憶測の成立』(2015)や、リボーンアート・フェスティバルでの『repetition window』(2017)などは、美術館という制度の外の、サイトスペシフィックなプロジェクトであったことや、震災という大きなテーマを抱えていたことによって、「謎解き」の仕組みだけでなく、「謎」の実体がともなった作品だったはずである。
分断と囲い込み戦略を駆使した本展は、あいトリと並んで、良くも悪くも2019年を象徴する展覧会であったことは確かである。しかし、決して目【mé】にとっての最良の作品ではなかった。せめて美術批評の名において、そう言っておこう。
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【注】批評家の仲山ひふみは、本展のレビューを執筆する際に「編集部を通じて、レビューでは展示の中心的部分に関しての「具体的な展示内容の描写」を避けるか、あるいは会期終了後にレビューを公開するかたちにしてほしいという「依頼」が、「作家からの強い希望」を背景として美術館側から伝えられるという椿事が生じた」と書いている。
https://bijutsutecho.com/magazine/review/21373
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黒瀬陽平
美術家、美術批評家。1983年生まれ。アーティストグループ「カオス*ラウンジ」代表。東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。博士(美術)。著書に『情報社会の情念』(NHK出版、2013年)。