東京文化発信プロジェクトとTABがタイアップしてお届けするシリーズ記事。第8弾は「フェスティバル/トーキョー」を紹介します。[加賀美令]
「フェスティバル/トーキョー」(以下F/T)は、舞台芸術の祭典として2009年の春に第1回、同年秋に第2回が引き続き、2010年10〜11月に第3回が開催された。
フェスティバルといっても、会期中にアーティストが完成した作品を次々と発表するということではなく、「クリエーション型=創造するフェスティバル」を基本方針とするF/T自らが、アーティストらと共に作品づくりから関わり、プログラムの約1/3がF/T自身による製作あるいは共同製作作品となっているところが特徴だ。
過去2回の開催を通じて、39作品、282公演、のべ1,392名の出演者とスタッフが関わり、来場者は12万人と文字通り大規模な祭典である。
スタートしたばかりの新しいフェスティバルだが、演劇文化も多様な日本において、これまで舞台芸術をまとめたイベントがなかったのが不思議なくらいで、F/Tの開催は、舞台芸術全般の発展にとって大きな起爆剤になるはずだ。
さて、舞台芸術というと、まずまっさきに演劇を思い浮かべる方が多いだろう。
インターネットが発達し、ネットゲームやホームシアターなど、家から出なくても楽しめるエンターテイメントが増えた時代の中、演劇という表現手法も時代の流れとともに複雑化、多様化しながら深化してきていて、もはや台本があり舞台があり観客が着席して観る「芝居」というイメージだけでは括れなくなってきている。その最先端が目撃できるのが、F/Tだ。
第3回目F/Tのキーワードは、「演劇を脱ぐ」。
「演劇を脱ぐ」とはつまり、脚本、劇場、舞台、役者など、演劇を演劇たり得るとしてきた枠組みを取り払い、舞台芸術の表現の可能性を切り拓いていこうという挑戦的な意思をはらんだテーマだ。
そのアプローチには二つあり、一つは「物語」から脱却すること。もう一つは、劇場を離れ、役者ではなく観客自身が演劇の担い手となるというアプローチ。
しかし、一体、物語がない演劇とは?
また、素人である観客自身が主人公となる演劇とは?
演劇の大きな醍醐味の一つに、一回性ということがある。
同じ台本に基づく舞台でも、公演ごとに少しずつ異なる部分があり、まったく同じ舞台というのは再現不可能だ。録画で観たとしても劇場での空気感というのはなかなか伝わらない。つまり、その場にいた人しか体感できない、たった一回きりのものなのであるが、それを前提にいくら言葉や写真で説明しようとしたところで、実際体験しない限りはなかなか理解できないのが残念なところだ。
本稿では、飴屋法水の「わたしのすがた」の鑑賞レポートによって、このアプローチの意味するところを少しでもお伝えできればと思う。
「わたしのすがた」について鑑賞者が事前に分かっていることといえば、それが「不動産」をテーマにした、戯曲も舞台も俳優もない体験で、完全事前予約制によって一人で鑑賞(体験)する作品だということのみだ。
当日受付に行くと、そこで一枚の紙を渡され、その指示に従って「第1留」から「第4留」までの4つの場所を一人で巡っていく。一枚の紙には一つの場所への行き方のみが示してあり、そこを見終えた後に、次の場所への地図を受け取ることになっている。
第1留は旧校庭にぽっかりと穿たれた大きな穴で、穴の近くには次のような言葉が掲げられている。
主よ たとえ わずかでも
あなたのように生きようとすれば
わたしも きっと 罪に定められるでしょう
わたしは それが こわいのです
人間の知恵に 耳を傾けるのがこわいのです
この「穴」は、死後誰しもが却ってゆく地中を想起させるものであると同時に、罪に”陥る”ことの暗喩でもあり、作品全体を通して象徴的な存在となっているのだが、鑑賞者はその不気味な大きさと宗教的な文言によって、始まったばかりの旅への不安をかき立てられる。
また、第1留の穴に続く3つの会場は、平穏な巣鴨の住宅街に「穴」のように存在する廃屋である。
第2留は、昔お妾さんが住んでいた(とされる)和風平屋家屋だ。ぼろぼろの空き家なのだが、七輪に炊かれた炭、風呂場に残る水気など、人の生活の気配がある演出が施されていて、かつて存在していた(とされる)お妾さんの姿とその人生に想像を馳せる。ここにも聖書を思わせる文章が掲げられており、妾という言葉から連想される俗的な罪を意識せざるを得ない。
開かれた鏡台や使いかけの石けんなど、かつてそこに生活していた(かもしれない)人の痕跡の演出が恐ろしいほどになまなましい一方で、部屋に施された蜂の巣やドライフラワーによるインスタレーションが、息をのむほど美しいのも印象的だった。
しかし、蜂がいない抜け殻となった巣とドライフラワーにはどちらも命(生気)がなく、そこには「死」が暗示されているのである。
そして、最後の会場となる第4留は元病院である。
薄暗い部屋に盛られた芝生混じりの土は、かつてあの「穴」を埋めていた土であろうか。床に衣服が並べられた部屋では、またも美しく飾られたドライフラワーが、もうそれらの服に袖を通す人がいないということを伝え、「死」のイメージを喚起する。
2階に上がると、全会場を通して唯一撮影禁止とされている部屋がある。中に入ると、ストレッチャーに整然と人骨が並べられており、鑑賞者はいやおうなく直接的な「死」のイメージに直面させられる。
この建物で、この旅は終わったことになるのだが、病院を出る時に手渡される紙には次の言葉が書かれている。
わたしは
日本に生まれました。
わたしは
無宗教、
無神論者です。
すべての鑑賞を終えて平穏な日常の世界に戻って来た鑑賞者は、この言葉によって先の穴に突き落とされるかのような、あるいは、自らの心の中にぽっかりと穴が空いたような気持ちになるのではないか。
というのも、鑑賞者は、各廃屋を巡ることでかつて存在した(とされる)人々の生に想像を馳せ、目の前には存在しない彼らの姿を(心の中で)「見た」。そして、第4留の病院では、いずれ訪れる自らの不在=死に不安を掻き立てられる。しかし、最後に手渡される紙と一緒に日常に放り出されると、それまでに喚起させられた気配だけの役者たちの罪と、自らの罪を吸い込む主体としての「穴」が、自分の心の中に空いていることに気づくからだ。
なお、会期後、「跡」展として一日のみ、現状復帰された4つの場所が公開された。穴は物理的に埋められてはいるが、それを確かめに行った観客は、埋められたように見えるだけだということを確認できただけではなかったか。
以上、「わたしのすがた」では、いわば見えない役者たちが、体験者それぞれの心の中で異なるイメージを持って演じ、それらが同じであることはあり得ない。座席に着いて視覚的、台詞、音などによって出来上がったストーリーを受け身で鑑賞する従来の演劇鑑賞を受け身の体験だとすれば、それに比べて圧倒的に見る人個々人の私的解釈・感情が入り込まざるを得ないのだ。
従来の観劇スタイルでは体験可能な、役者や他の観客との体験の共有が不可能であるということもまた、第1留の「穴」に象徴される喪失感に集約されてくるともいえるし、「演劇を脱ぐ」試みを理解する良い一例だった。
冒頭にて述べた通り、演劇/舞台芸術は臨場感が醍醐味であり、その場で体験しない限り、本当の魅力は永遠に想像の域を出ないのが残念ではあるが、公演の一部の様子は、F/Tのオフィシャルサイトにて、映像または写真で見ることができる。
また、次回F/Tが今年の9〜11月に予定されている。次回は、「劇場を捨てよ、街へ出よう」(予定)ということで、さらに攻め切り込んでくる内容となるようだ。
TABlogライター:加賀美 令 1975年生まれ、東京都在住。大学卒業後、働きながら2005年武蔵野美術大学通信教育課程にて学芸員資格取得。いくつかの展覧会のキュレーションに関わったり展覧会ガイドなどを経験した後、2005年夏よりフルタイムでアートの仕事に従事。他の記事>>