北京在住のアーティスト、池崎拓也の個展が新宿眼科画廊で開催中だ。謎の展覧会タイトル「瞼の裏側とその空虚マップ」に尻込みせずに全感覚を開放して見てほしい展覧会となっている。
折り紙やス-パーボールなどの身近な素材と、脚立で抑えられた金色の紙、布にくるまれた球体、そして彼自身のドローイングで構成されたインスタレーション作品《瞼の裏側とその空虚マップ》は一瞬の既視感と共に全く見たことのない世界を見せてくれる。
身近な物やドローイングで構成した空間を創る作家は多いが、池崎拓也の作品の面白さは一種のとらえどころのなさにあるだろう。針金のボールに突き刺さった折り紙の裏表や、雑誌のページが爆発したように飛び出ている箇所、目を遮るような雲のような白い輪など、視覚、触覚などの五感だけではない、第六感あるいは皮膚感覚全体で受動するような(触覚とも違う)感覚に対するアプローチに迫りたい。
作品のタイトルにもある瞼の裏側について聞いてみると、目を閉じたときに見える砂嵐のような画像や光の明滅が一体どこに移動しているのかという問いが根底にある、との答えが返ってきた。自分の内にあるのに到達できない瞼の裏のイメージや、簡単に把握できるはずのシーツの皺や、物の裏側になかなか到達できないという奇妙な苛立ち。このもどかしさに関する感覚の鋭さが彼の作品の核にあって、そこがおもしろい。
格子柄の布や写真が登場する理由も、格子模様の裏と表や始まりと終りに興味があるようなのだがドローイングや紐や針金などのランダムな色や線と同時に、格子柄や球体などの幾何学的で法則性のある物が構成されているところが、単にインスタレーション作品というよりは、タイトルにあるように確かに地図に近いかもしれない。とらえどころのない身体あるいは自分自身と、それをとりまく世界の地図。ときに俯瞰して、そしてときに地図に入り込み、第六番目の目を持った地図は常に上書きされ展開していく。
画廊の奥にある空間では、作品《Wave》を見る事ができる。一枚の四角いバスタオルが有機的な形に変化していく映像作品と合わせて観ると、一枚の青いバスタオルに実は可塑性が携わっていて、二度と同じ皺を再現することはできないのだということに気付く。この青いバスタオルは無機質な工場で何枚も作られて世の中に同じものがたくさんあるだろうが、人の手に渡り使用され洗濯されることで全く別の表情を持ちながら同時に存在している。
目を閉じたときの画像や、一瞬のタオルの皺や布の結び目など、気付かない場所で起こる知覚が反映された池崎の作品=地図は常に拡大され生成されているようだ。細部に迫ったり、全体を俯瞰したりしながら曖昧な部分に迫ろうとする彼の作品は、未完成のような活力を持ちながら、私たちがおざなりにしている第六感を研ぎすませてくれる。
◆池崎拓也さんへメールインタビューしました。
▼北京での体験でショッキングだったことはありますか?どんなことですか?
特にショッキングな事に遭遇しているわけじゃないですが、小さな驚きとも言うんでしょうか、文化間の違いの摩擦のような感じでいろいろあります。どんな事とと聞かれると忘れちゃっててうまく話せない感じです。
▼北京での生活はどのように作品に影響していると思いますか?
いろんな影響は多少なりあると思います。
東洋人であって、見た目がさほど変わらない中に、いろいろ秘め事があるような気がしています。
よそ者でいることとよそ者でいられないことがあって、自分が何者であるのかわからない状況によく陥ってます。絶対的な他者であるようなないような。たぶん西洋文化圏にいると、絶対的な他者でいられるような気もするんですが…
まぁ、そういう感覚で周り見渡したり、距離感を量ろうとする感じでしょうか。。あと、街角で工事現場とか見たりして、何かが出来上がる予感と無くなってしまう予感が同時に浮遊していたりする感じに出会ったりする事がなにかしらの影響力にはなってる気がします。
▼作品が完成したと思うのはどんなときですか?
作品が完成したとあまり思ったりしないです。何か手探りで迫って行くような感じがあって、最初にある程度作品の構造や使う物を決めて、現場でまた変えたり組み替えたりするような感じです。必要ならば足すし、引くしみたいな。そういうやり取りの中で、見えてくるものとの対話によって、時にけんか口調になったり、話が噛み合なくなったりと、いろんな状態で対話ができてるのを保つ感じだと思います。
―池崎さん、ありがとうございました!見応えのある展覧会なので会期が短くて残念ですが、次の展覧会も楽しみにしています。
Sayako Mizuta
Sayako Mizuta