私の原稿では毎回5つ星による評価をつけていきます。
白い☆が評価点。
8月15日に観た展覧会。
観た感想 ☆☆☆☆☆
観終わったとき、壮大なドラマのなかをくぐり抜けたような、本を一冊読んで綴じたときのような爽快感を味わいました。ワクワクとゾクゾクがある。
ネタばれするので書きませんが、インタートラベラーというタイトルで旅の道程になぞらえられているこの展覧会は、進むにつれ核心へと近づいていく感じなのですが、とりわけクライマックスなどは展示室に入った瞬間にちょっとしたサプライズ感もあり、ゾクリとすること受けあいです。
これまでの鴻池朋子展の中でも最も規模の大きい、回顧展と言っていいであろう今回の展覧会にかける作家の気合の入りようが伝わってきましたし(自らの世界観に対するこの作家の妥協の無さはいつものことですが)、まさに展覧会そのものがひとつの完成された作品となっていました。立体的な絵本の中に入り込んだ気分なのですが、まずとにかくストーリーテラーとして卓越していること、そして絵が巧いことに唸り、そして何より、この作家の決して涸れることのない「想像力」の井戸に対して感動しました。絵は世界を創り出せたんだ、久しぶりにそんなことを思い出させてもらいました。
「想像力は いつも自由だ
自由で 狂って 遊んでいる」
「想像力は 正悪を寄せつけず
美を逆転し 言葉を破壊し すべてをふりきって その本能のままに
長い長い 記憶の廊下を抜け
ある一冊の本に向かって 飛んでいく」
想像力は、洋の東西も、ものの縮尺も、銀河の果てからスノーボールの宇宙も脳内も、あらゆる秩序を飛び越え、混ぜ合わせ、新しい何かへと変身させることができる。
考えてみれば、鴻池朋子の世界のメインキャラ、「みみお」って、床に落ちてる毛くずみたいだ。
でもあるときそれは、想像力によって命を与えられ、「みみお」になった、のかもしれない。
想像力は、自在だ。そしてそれが日常のなかに滑り込むときのスリル、心地よさと言ったら。
やはり作品の中に書かれていた、作家の言葉をまた借りるなら、
「想像力は、この松果体のあたりが ここちよいと 宿を決め 忍び込んだ」。
一旦、想像力を開放して絵を見始めれば、それは様々な種類の知とどんどんつながり、広い世界への遊泳を始めることができるだろう。
たとえば、渦を巻くたくさんの剣というモチーフを見ても、それは風の精霊のようにも、心臓に送り込まれる血液中の血球のようにも、道しるべとなる方位磁石の針のようにも、三種の神器の剣のようにも見えてくる。そして僕は、神話、化学、宗教…いくつものライブラリーにアクセスし始める。
また、時間も遡れる。どことなく民俗資料館っぽかったり、神社で古文書を見るときのような感じがする、そんな鴻池朋子のインスタレーションのなかで、獣の匂い、杉の木の匂い(昔、天河神社にいったときに感じたような)…原初の、古代の感覚へと、誘われる。
「神話に遊ぶ」とタイトルにもあるとおり、鴻池朋子の作品には、神話とか民話と接点が強くある。(そういえば六本足の狼を見ていて思い出したが、日本の民話で、狐の妖怪で、しっぽが9本あるやつがいましたよね。「白面金毛九尾の狐」という)
僕は最近、いまの時代に一番大事なのは(欠けがちなのは、と言い換えてもいい)情報じゃなくて想像力じゃないかと思うのだ。情報を消費して良しとするのではなく、そこから何を想像するのか。また、それを喚起してくれるところにアートの社会的存在意味があるのではないか。
ともあれ、心地よい旅でした。展覧会会場を出たとき、森の中を抜けたようなすっとした気持ちになりました。大きく息をはいて、そしてもう一度深く息を吸い込む。新しい世界に踏み出したようで、とてもすがすがしい。
追記:展覧会会場入ったすぐのところに「絵描きとは死者と遊ぶ人でありたい。けれども、現実にはごはんを食べないと生きられない」といった内容の文章が壁に書かれていた。察するに「ごはんすら食べないで済む=死者と同等(遊べる)=ひたすら24時間描き続けていられる」という意味かと思ったが、それがこの人の考える画家として求める理想の境地であるということか。
追記2。今回チラシにもなっていた屏風の新作について。これまで鴻池朋子は、割とぎっしり書き込むというか、その緻密さが魅力でもあったが、言い換えれば書き込みの量に頼っていたようなところもあったかもしれない。その点では、屏風の新作は、余白をあえて描かないで、潔くわりきったところが新しいチャレンジに思えた。