公開日:2008年12月28日

ヴィック・ムニーズ 「ビューティフル・アース」

拡張する手と目の背後に広がる風景

《アウトレット (ピクチャー オブ アースワークス)》 2005年、ゼラチン・シルバー・プリント今回のトーキョーワンダーサイト渋谷で開催中のVik Muniz展を鑑賞すると、奇異な感じにとらわれる。展示自体に目新しいことはないが、掛けられている作品がそういった感情を引き起こす。それは絵画と写真の単なる組み合わせだけではなく、もう一枚仕掛けのようなものが噛んでいそうだ。

《母と子 (ピクチャー オブ ガベージ)》 2008年、デジタルCプリントVik Munizの作品は絵画をベースとしているが、描く素材が変化し続ける。ドット、チョコレート、ダイヤモンド、ピグリウム、玩具、人形等。昨年、著者はモスクワで彼の個展を鑑賞したが、誰もが知っている有名絵画を上記素材で描いた作品が展示されていた。その際、絵画と写真という形態であるのだが、「名画をいかに別の素材で描いているか」というところに焦点が当たり鑑賞されていた。つまり「名画」のイメージを中心に鑑賞が展開される。この傾向は2007年以前から定期的に用いられ、彼の作品制作のひとつであった。しかし、今回のトーキョーワンダーサイト渋谷での展示作品は「名画」を取り上げていない。ブラジルのとあるゴミ集積所にて生活する人々が対象となっている。ただし、単に具象的に描かれているのではない。

今回の展示作品はMunizのアトリエの床を目いっぱい用い、そこに予めプロジェクターで人物を投影し、背景となるゴミを配置していく。その全体像を高い位置から撮影することで展示されている作品となるわけだ。そのため、ごみというよりガラクタやおもちゃのように映る。だからゴミが、対象人物の一要素であり、普通なら負のイメージを喚起させるが、暗い色調で描かれた人物像を引き立てる色彩もしくは対象人物の輪郭を引き立たせる対比要素として生まれ変わっている。

《クラウド クラウド, マンハッタン (ピクチャー オブ クラウド)》、2002年、ゼラチン・シルバー・プリントMunizはトークイベントにて写真というメディアを「視覚以外のほかの要素を喚起するもの」と述べていた。展示作品で写真は最終形態としてではなく、彼の絵画の一要素として用いられているに過ぎない。つまり我々が鑑賞して写真と思い込む作品形態では完結し得ないのである。写真は確かに対象物を正確にとらえることができるが、そこから何を想起するかは鑑賞者に委ねられている。「写真に思いを馳せる」とはよく言われることだが、そういったことをアートといった文脈に載った途端、我々は忘れてしまう。いや、むしろそれは批評の文脈では禁じ手なのかもしれない。ただMuniz自身がそれを戦略的に用いていると述べているから、写真対象の背後にある風景の想起が促される。そのため、具象的に物事を鑑賞するためのものでなく、我々の情報受容機能を撹乱するために用いられているというのは、穿った見方であろうか。

こうした印象を強く感じるのは、写真と絵画の組み合わせによるところが大きく、また描かれた実際のサイズとは異なるサイズで撮影され、壁に掛けられているという点にあるのかもしれない。

この点に加えて、Munizは作家性つまり「彼という作家が一人で創り上げた作品」のような考えに固執しない。そのため、先の写真絵画もアトリエの学生や有志との共作とも語っていたし、「名画」シリーズも考えてみれば他の作家の作品を引用している。


従来、アートにおける作家性はプロジェクトやキュレーションといった行為によって曖昧になりつつあるが、Munizの場合画像というものにこだわっている。二階の展示空間に掲げられたアースワークや空中に飛行機で絵を描いた写真は、作家性を曖昧にするというよりもイメージがまずあり、その延長上に共同作業や作品背後にあるイメージ喚起があるといえよう。

わかりやすい対象でありながら素材や写真とのズレが驚きをもって感じることができる。今回の展示ではそういったものを味わえよう。

Yuya Suzuki

Yuya Suzuki

博士後期課程在籍 1980年生まれ。ロシア・ソ連芸術史、全体主義下(第三帝国、スターリニズム)における紙上の建築と展覧会デザイン、エル・リシツキイの研究に従事。<a>MOT</a>で企画を担当。またMOTの<a href="http://mot06.exblog.jp/3398208/">CAMP</a>というイベントの企画・運営に携わる。現在、ロシア人文大学に留学中。