展示会場は主催側が正規に押さえている展示ホールとギャラリー23、提携先の展示会場(ギャラリー、大使館、カフェ等)22とかなり多い。加えて展示会期がまばらなため、善く言えば会期中毎週どこかで新しい展示が観賞でき、悪く言えば、暇がなければ観賞したい展示を観賞することができない。目まぐるしく移り変わると言っていいかもしれない。
また展示作品はギャラリー選定によるものとキュレーター選定という形で、それぞれ分かれているのだが、この点はあまり着目されていない。近年イオシフ・バクシテイン、ヴィクトル・ミジアノ、エカテリーナ・デョーガチ、タチヤーナ・ダニエリヤンツといったロシア人キュレーターが西欧で知られ始めつつある中で、このビエンナーレでキュレーターの手腕が問われない方向に傾いてしまったのは残念である。
しかしこの点を上手く撹乱するのが、もう一つの出展枠「アーカイヴ写真」である。
この点に関して、もう少し話を進めてみよう。
アーカイヴというと、当時を知るための歴史資料として保存収集されるものだが、こと写真になると別の意味合いを帯びてくる。それは、対象写真が情報機能を失い作品としての価値が生まれるということである。
テーマの一つ「驚愕ないしは驚くということ」が撮影者と被写体の緊張を生み出すことから引き合いに出されたとカタログでは説明されているが、この観点からアーカイヴ写真を観賞するとその緊張感が一層増す。
というのも、歴史事実というフィルターによって被写体と当時の時代背景を探ることが鑑賞者の頭をまずよぎるからである。それは審美的というより、哲学的な思惟によって写真を作品たらしめているといえるかもしれない。
三幅対のようにそれぞれの部分が補完し合い、見るものの緊張感を高めている。顔や掌には皺が刻まれ単なる皮膚、顔貌しかそこには存在しないものの、バイオグラフィーに記された悲喜によって、鑑賞者は否が応にも皺を何かの痕跡として眺めてしまう。
とすれば写真という媒体によって収められた風景は原風景として鑑賞者の前には存在せず、鑑賞者の心象作用による投影対象となる可能性を秘めている。
この点を「アーカイヴ写真」という出展枠組みが補強し、「ロシア写真」の特質となる予感を感じさせた。
このことはそもそもロシアという国自体がソ連という重厚な歴史を引きずり評価されていることと似ている。つまり自立した評価がまだ確立されていない。コンテンポラリー・アートに関しても西欧やアジアの流れと比較して、初めて彼らの立ち位置を確認できる。この潮流は来年で3回目を迎えるモスクワ国際アート・ビエンナーレ、今年度初めて開催されるモスクワ国際建築ビエンナーレといった世界的な流れにやや追従する手法にも見られる。
飽くまで推測の域を出ないが、そうした中で写真という表現媒体のみがうつろうことなく、鑑賞者の時代状況に応じて新たな意味合いを獲得できる。このことを、今回のモスクワ国際フォトビエンナーレは証明したように思う。