原美術館で「ピピロッティ リスト:からから」を観てきました。
何か面白いものが観れるんじゃないかと、カラカラと乾いた欲望が音を鳴らし、私は前のめりぎみに会場へと向かいました。美術館近くの小道に入ると、同じような音を出しそうな人たちが期待に満ちた表情で同じ方向へと歩いていました。
私が初めてピピロッティ リストの作品を観たのは、1997年のベネチアビエンナーレ。《Ever Is Over All》は、無邪気さと残酷さが混ざったようなビデオインスタレーションで、私はいっぺんでピピロッティ リストの作品が気に入りました。今回も《Ever Is Over All》は展示されており、久しぶりに同じような衝撃を受けました。ピピロッティ リストの作品は、どれも生々しくも可愛らしいです。そして、私たちを湿度のある妄想力の世界に浸してくれます。
《Apple Tree Innocent on Diamond Hill<Apfelbaum unschuldig auf dem Diamantenhügel>》は、モビールタイプの作品。吊り下げられたプラスチックのパッケージ(商品の透明プラスチック容器)たちに淡い映像が投影され、その反射が壁面をクラゲのように漂います。その透明で淡いクラゲの中に、観客である私たちの影だけがハッキリと黒く存在しています。
そんなビデオや工業製品をモチーフにしている作品たちは、決して自然素材とは言えないのですが、その雰囲気は人工的な色ではなく、生肉のピンクを連想させ、湯気さえ感じられます。けれど、やっぱりどこかよそよそしくも感じられます。その相反する感覚は、まるで「女の子」みたいです。「女の子」は性別ではありません。「女子的な可愛らしさ」という妄想(文化!?)を体現して初めて「女の子」と認識されます。けれどやっぱり妄想だけでは存在しきれない人間的なエグさというか、生々しさも共生してしまうのが「女の子」の宿命です。
ピピロッティ リストはその相反する感覚を、そのまま作品に重ね合わせることに成功しています。それは女性アーティストだから「できる」ことなのか「しなければ」ならなかったのか、わかりません。このような女性性というのは、(女性にとっても)決して全てを否定するものではないと思います。「女性の自立」と謳って、ヘンテコな平等を押し付けられるより、異質はそのまま異質として楽しめるような社会の方がよっぽど「自立」しているような気がします。
一つに方向付けるのではなく、複雑な感覚のままで軽やかに別の世界に連れて行ってくれる作品たちを堪能し、私は冬の寒い帰り道を散歩しながら帰りました。
yumisong
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