2007年を個人的に振り返ってみて、印象に残った展覧会をいくつか挙げてみるとすれば、東京都現代美術館で開催されている「SPACE FOR YOUR FUTURE」は間違いなくそのひとつである。
キュレーターにより投げかけられている現代的なテーマ、コミッションワーク(テーマに応えて制作された新作)のレベルの高さ、13ヶ国34アーティスト/クリエーターの参加という規模と国際性、展示空間の完成度、関連展示など館内外へも展開するメディアとしての展覧会デザインなど、実に多くの見どころがあるからだ。
また、このような分析的評価はさておき、それぞれの作品を感覚的に楽しみながら、マイペースに鑑賞している観客が多いように見うけられるのも好印象である。綿密に構成されたテーマ展というものは、時に説明的で、お勉強感がすぎるものだったりもするが、テーマはあくまで通奏低音のごとく控え目に流れており、作品が主役の展覧会なのだ。
この展覧会に出品されている作品には、宿命的に共通している特徴がある。それは作品がテーマの文字通り空間そのもの、あるいは空間を構成する要素としてあり、そこに観客が訪れることではじめて作品として成立するものばかりであるという点だ。
例えば、彩色したカンヴァスと壁に鉛筆で直接描いた模様を組み合わせ、部屋全体へと花柄が広がっていくかのような空間をつくりあげたマイケル・リン、薄い紙をレース細工のように切り抜いた作品を天井から吊り下げて展示をしたエリザベッタ・ディマッジョ。どちらもいわゆる「絵画」や「彫刻」のように展示場所を選ばず自立性を保っているわけではなく、人のいる空間が念頭に置かれたスケールでデザイン・制作されており、展示空間と作品、そこに訪れる観客が不可分の関係にある。
同じ建築家でも、石上純也による作品はまた大きく異なる試みを行なっている。美術館の吹き抜けの空間に巨大なアルミの構造物を浮遊させた《四角いふうせん》は、圧倒的な存在感を放ちながらも、その材質感、スケールからはとても考えられない軽やかな動きをしており、我々の日常的な身体感覚をあっさりと裏切る。
ビデオインタビューでも本人からコメントをいただいている通り、この作品が存在することで刻々と表情が変わってゆく空間、風景そのものについて改めて考えさせられる。
アシューム・ヴィヴィッド・アストロ・フォーカス(avaf)は廃材やチープな素材でつくられた住まいの可能性をトビアス・レーベルガーは車の入るガレージのモデルを提案。オラファー・エリアソンやカーステン・ニコライは光や空気中の粒子を厳密にコントロールすることで、幻想的な風景を生み出している。
他にも、足立喜一朗による外からは丸見えの「一人ディスコ」と化した電話ボックス空間、エルネスト・ネトの身につけることができるソフトスカルプチャーや、ドレスそのものが映像を映すフセイン・チャラヤンの《LEDドレス》(本展では、人の身を包む衣装もひとつの「空間」であるととらえられている)など様々な切り口で空間に関する作品が並ぶ。
ここで現代人にとって問題になってくるのが、時間と体力の限界である。一般的な企画展とは異なり、個性的な空間が続くこの展覧会では、それぞれの作品を楽しむために一歩足を踏み込む必要がある上に、次の空間に対してはまた気持ちも切りかえて臨んでいかなければならない。
結果、全ての展示空間でその緊張感が続くとは限らず、作品によってはそのうわべだけを味わったような感覚が残ってしまうことがあるのではないだろうか。少なくとも、私にとっては全体の印象から受ける充実感こそありながらも、そのような細部に対する消化不良感のある体験となってしまうものであった。
そしてそのような作業は、物事や情報に満ち溢れている私たちの日常生活においても大事なことだ。目の前に現れるものを躍起になって全て理解しようとするのでもなく、人ごとのように漫然と流して見るわけでもない。私たちは、自らの未来のために感性を研ぎ澄まし、適度な集中力を保ち続けながら生きていく必要がある。
「THE FUTURE」ではなく、それぞれの未来を示す「YOUR FUTURE」というタイトルがつけられたこの展覧会には、そのようなメッセージが込められているのかもしれない。
Makoto Hashimoto
Makoto Hashimoto