公共空間にあるオブジェやモニュメント、備品を包囲、交換するという「火」によって目に留まらない対象物を西野は注視に至らしめ、その対象を見直すという新たな解釈をもたらす。今回のプロジェクトも、誰の目にも晒されているはずの屋上時計をギャラリーに持ち込むことで、公共空間と鑑賞者の個的体験という私的圏域を攪乱する作品であった。
7/11-9/24まで森美術館のギャラリー2で、世界各国の有能なアーティスト発掘を主旨とした「MAMプロジェクト」の《MAMプロジェクト006:西野達》が開催されている。
今回の展示は、西野が制作の中心とする「交換プロジェクト」、「取り囲むプロジェクト」のうち、制作形態からして前者に該当するものであった。ミュンスター芸術アカデミーを卒業する1997年の《obdach 宿泊所》を皮切りに、毎年ヨーロッパを中心に作品を制作し、2002年の<第二回リバプールヴィエンナーレ>における広場にあるヴィクトリア像を取り囲みホテルに仕立てた《Vira Victoria》、2002年のバーゼル市中心部にある大聖堂の天使像を囲い込み個室を作った《Engel》等で評価を得た。
日本では2002年には水戸芸術館現代美術センターでの〈日常茶飯美-Beautiful Life?〉展の《横溝商会の屋上》、2005年〈横浜トリエンナーレ2005〉における《ヴィラ會芳亭》、昨年では銀座のメゾンエルメス屋上での《天上のシェリー》と愛知県美術館〈愉しき家〉展での《驚くこともあれば、そうでない時もある》等で彼の作品に接した人がいるかもしれない。こうした作品を辿っていくと、今回の出展作品《東京時計》はやや異質である。というのも「交換プロジェクト」として括る作品を日本で展示するのはおそらく今回が初めてだからだ。
西野本人によれば、作品のコンセプトは「笑い、暴力、セクシー」と三点に集約されている。今回は特に「暴力」が突出した作品である。公共空間にある時計は本来、遠くからでも時刻を確認できる機能を有しているはずだ。だが、東京のような高層建築が林立する中では全く目立たない存在となり、その機能を喪失してしまう。
外見からして大凡合わないギャラリーという空間にその時計を持ち込むことで、街頭時計の大きさを改めて認識し、否応もなく圧倒され、向き合う羽目になる。空間の均斉に対する「暴力」と本来の機能を喪失させる「暴力」が作用しており、その「暴力」が単なる示威行為ではなく、我々の常識に支えられた空間認識(「大型時計は街頭になければならない」というような)を覆すダイナミズムに支えられていることは特筆すべきであろう。入り口の時計はきちんと作動しているので「運がよければ」長針か短針にぶつかるおそれがある(監視員が立っているので、決してそのおそれはないのだが)。美術鑑賞を目的として足を運ぶ鑑賞者にとっては、予期せぬ出来事に遭遇させられ、作品が発動する「暴力」により身体的にも危険な場へ引きずり込まれるのである。
「暴力」からはほど遠い二枚のドローイングは、時計に圧倒され見落としがちになるが、単なるドローイングではない。《東京ケバブ》は東京タワーの写真にマジックで描かれた肉が尖塔部に突き刺さっており、《芋洗坂の街灯下に仏陀をつくる》では漫画風のドローイングでその名の通りの図柄が描かれている。共に実現不可能のように見えるが、「ペーパーアーチテクチャー」と一刀両断するわけにはいかない。
現に《東京ケバブ》と《芋洗坂の街灯下に仏陀をつくる》は、西野のインスタレーションと並置されることで、実現可能と不可能の境界が不鮮明になっている。それはほぼ同じ規模のものがインスタレーションとして存在しており、先に述べた「常識」という枠から超えてしまっていることによる。そして「可能」と「不可能」の線引きで作品を捉えることが問題ではなくなる。これも「実現不可能」から「現実の作品への可能態」という「交換」の系譜に据え置くこともできる。
してみれば、「交換」そのものが暴力を内在する危険な行為なのかもしれない。西野は近年制作と並行して、自らの名前を「二年に一度くらい変える」ようになっている(本人談)。名前全てを変えてしまうのではなく、一部分に他人の名前のある部分を挿入する。危険な行為である。個人を指し示すもの(シニフィエ)と指し示される個人(シニフィアン)が名前では強く結びつくため、我々の存在意義をも揺るがす破壊行為とも取れなくはないからだ。こうしたスリルが西野によれば「セクシー」さを掻き立てる。
存在意義を揺るがすだけなら、まだよいほうだ。「交換」によって我々の対象への認識、こう言ってよければ、世界認識すらも強制的に変化させられる。定位置に対象物が存在しない、もしくは別のところで存在するということは、その対象物本来の意味を捉え直すきっかけを与えてくれる。存在→不在→存在あるいは存在→不在→存在という単純な変遷ではあるが、見慣れない形態の作品(「肉の突き刺さる塔」、「六本木の一等地に鎮座する大仏」、「ギャラリーには不釣り合いな時計」)を経由することで、それ以前の状態(「普通の東京タワー」、「普通の大仏」、「普通の街灯時計」)がより一層鮮明に浮かび上がる。
さらに西野の作品では交換行為が一時的であるが故に、尚更強く作用する。つまり全ての作品で対象とされたものは本来の定位置に戻され、作品となる以前と以後とでは確実に眼差す強度と対象物の解釈に変化が生じるのである。
一般了承と鑑賞・体験が作品によって攪乱され、その認識状態のまま作品は本来の姿へと解消されていく。そのようにインスタレーションやドローイングを見ていくと、存在しながらも我々の目に留めない公共物にすら、アートへ転化しうる要素が胎胚していると気付かせてくれるのではないか。それは巨大な銅像(《Vira Victoria》(2002)他)でも街灯(《Denken Sie sich einmal an meine Stelle》(2002)他)でもトイレ(《Heute mir, morgen dir》(2004))でも時計(《東京時間》(2007))でもよいのだ。
表面上は破天荒かつ奇天烈な作品と見える西野の作品。だが、深層では公共物への眼差しや一般了承を攪乱しつつも本来の意味を考える余裕を生み出す。そのことによって我々は日常を新しく見つめることが出来るのではないか。このトリックスターの暴れっぷりを、森美術館ギャラリー2でとくとご覧あれ。