公開日:2007年6月21日

束芋さんとのインタビュー

現在、原美術館では若手アーティスト、束芋氏(たばいも/1975年兵庫県生まれ)の個展を開催しています。彼女はアニメーションを用いた映像インスタレーション作品を通じて、現代日本の暗い側面を探っています。

写真提供:志賀理江子
TABlogにおいて、アーティスト、デザイナー、キュレーター、そしてその他アート界の人々とインタビューをする新シリーズの第一弾として、私はこの展覧会に足を運び、そのあと束芋さんにお話しを伺いました。

展覧会タイトル「ヨロヨロン」とは「ヨロヨロ」と「輿論」からアーティストが作った言葉で、「弱い私の唱える論であり、『論』自体はいつも正解を求めない、どちらともとれないヨロヨロしたものである私の考えを表現した言葉だ」 という。社会や「輿論」は特定できるものではなく、また自分自身が世間一般の一部なので、束芋さんは「輿論=自分の論」であると認めつつ、その不安感を作品に吹き込んでいます。

「真夜中の海」は大型インスタレーションとドローイングを中心としていて、原美術館の空間にあわせた展示になっていることに、作品を見た観客はすぐ気づくでしょう。入り口にある受付の隣の黒いカーテンをくぐったら、観客は暗くて狭い空間に入り、アパートに並ぶ郵便受けのような覗き穴を通して映像を見る、という仕組みになっています。中で吹く風が顔に当たり、暗い海のアニメーションが次第に見えてくる・・・、と。二階への階段から映像作品を鑑賞することもできます。

「真夜中の海」のためのイメージ 2006年 ヴィデオ インスタレーション ©束芋
「真夜中の海」のためのイメージ 2006年 ヴィデオ インスタレーション ©束芋
写真提供:原美術館

束芋さん、インスタレーションの設置の仕方によって、映像作品の鑑賞方法を特定していますが、束芋さんにとって、作品に対する観客の体験を支配するのは重要ですか?

どの作品もそうですが、支配しているというよりも、観客の積極性を引き出すような装置としてその空間を作っていくんですね。そこがとても興味を持っているところで、こういう設置というのを、こういう方向で考えているのが、見る方がある程度の苦痛を感じる空間 – 狭かったり、暗かったり、スロープのついた場所とか、そこでじっと立っていなくてはいけないとか、色々な条件があると思うんですけども、どれもただたんに凄く快適な状況で映像を見れる環境ではないんですよね。だから、それをわざわざ作り込んでそういった環境に観客の方をおいて、そこから見て頂く。そうした場合に、その苦痛を感じる空間にいるというだけで、その作品を見ることを諦める人もいると思いますし、またはその中でも何とかその作品を見てくれる人もいるでしょうし、全部観客のチョイスにかかってきていると思うんです。そのへんで私は特に自分自身が作品を見てください、と目の前に出して、とても快適な環境を作ってみせるというのではなくて、観客の方も積極的に関わって頂くことで、やっと見てもらえる。そこでその観客の方が汲み上げていくストーリー自体が作品だと思っているので、一緒に作っていくという感じで、しかも私のわざわざ作りこみによって苦痛を感じたり、乗り越えなくてはいけないという部分がある上で、参加してもらうという形をとっているんですね。

美術館に入って「真夜中の海」を見た時点では、見る場所が二つあることに気づきません。最初の方は、海がはっきりと見えなくて、まるで世界が逆さになっているようで・・・

そうですね、横から見ている状態なので、こちらから見るのとはまた全然違う方向で、ただたんに線が動いているのが見えているという感じですね。そこで私はその作品を見てもらうというよりも、何かしら興味を抱いて頂いたり、自分の中で動く線というものに対する興味を高めていってもらえればいいかな、と思って。例えばそれが全く、こうやってのぞく場所に気づかずに帰ってしまっても、それはいいんですよ。たまたま気づいた人がその見方というのを一つ楽しみに加えて頂ければいいですし、気づかなかった人は、正規の場所というか、上から見る場所、あそこから見ていただければ、問題はないんですけども、ある程度の楽しみ方として、そういうものあるかな、と思って。

覗き穴を通して作品を見ていた間、パラドックスを強く感じました。つまり、この海を見る経験自体は抽象的なのに、風が感じられるので何となく本物の経験を思い出させてくれたのです。このパラドックスは意図的に作り出されたものですか?

いえいえ(笑)本当に、インスタレーション作品を作る時はいつもなんですけども、本当に偶然に何かが起こって、それがこうまるでコンセプトで初めから汲み上げたかのように出来上がっていくことがなければ、いい作品にならないんですよ。だから今回に関しては、あの空間で風が起こった、あれは本当に偶然のことで。

扇風機ではなくて? どうして風が吹いていますか?

あれは中の空調が、器上になっているつぼが動いて、それがバーっと外に出てきているんですよ。外に出る空間が少ないもので勢いがつく、それだけのことなんですけど、それをわざわざ初めから組み込もうと思ったのではなくて、偶然にああなってきたんですけども、凄く大きな効果を出していると思いますね。

「真夜中の海」には、海を動いていく髪の毛・カツラのような形があります。この作品は「髪の毛」と「神の気」という言葉遊びがあるそうですが、カツラと長い髪の毛は日本人にとって特別な印象を与えるのですね。

女性の長いストレートな髪の毛というのは、ただ髪の毛だけという状態は多少あるのかもしれないけど、生きているはずないのに伸びてくる日本人形の髪の毛とか、ホラー映画で使われる髪の毛のイメージというのは、定着したイメージとして最近はあるんじゃないかな、と思います。ただ、それを利用しようと思ったというよりも、一番の出発点としては上から俯瞰した人間が普通に動いている。体があって、髪の毛があって、上から見ていたら髪の毛が動いていく。「これには体は要らないな」と思ったんですよ、考えている時に。体というのものが逆に邪魔して、綺麗なイメージや、それが持つ強いイメージというのを逆に体の動きだとかで拘束しちゃうなと思ったので、体をなくしたんですね。本当に単純に俯瞰した頭部のイメージで、それが髪の毛が海の中で、水の中で動いた時にこうなるんじゃないかな、という感じで。日本のどうこうというよりも、女性の長い髪ぐらいの設定で使ったんですけど、結構出来上がってきてねっとりとした感じというか、動きもそういった日本のホラー映画とか、そういうものは感じさせる、と。

本物のカツラや昔からのカツラは人間の毛で作っていたりしますし、人間の髪の毛の一本一本というのはDNAがきっちりとあるものなので、そういう怖さというのは、皆さんどこかに持っているんじゃないかと思います。作っている時というのは、単純に上から見た人間の姿。それ自体が水中に浮かぶ新しい動物のように見えればおもしろいかな、と思って。髪の毛の先が動いた時に魚のしっぽに見えるということもあって、髪の毛というものを使ったんですけども、後に髪の毛というものを発見して、それでまたからめていく、と。たまたま一個一個これも言えるな、とくっついたものが最終的にああいう形に奇跡的になった、という感じで。なかなか初めから、こういうものを表現したくて、そのためにこれとこれが必要で、って動き出せないんですよ、私。

「ギニョラマ」のためのイメージ 2006年 ヴィデオ インスタレーション ©束芋
「ギニョラマ」のためのイメージ 2006年 ヴィデオ インスタレーション ©束芋
写真提供:原美術館

人間の体をなくす、または変更するというのは様々な作品で使われているテーマですね。例えば、手と虫の体が絡み合ったドローイングや女の人の鼻から生まれる赤ちゃんの画像。人間の体に対する考え方は?

アニメーションという一つの表現メディアがとても重要なキーになっていると思うんですけども、まずアニメーションで見せる時に、なるべく余計なものを排除していくんですね。そうしないと、本当に表現したいものというのが、なかなか表現できない、そこまで至らないことが多いんですよ。だからビジュアル的な一枚一枚の絵に関しても、これは必要ないなと思ったら、削除して、ここが・・例えば赤ちゃんは普通だったら下から産まれるけど、それってそれをわざわざアニメーションで表現する必要もないじゃないですか。それはみんな分かっていることなので、それをもっと違う形で表現したら、違う意味も付加できてくるかもしれないじゃないですか。また、短時間でちょっと深いところまで表現できるのではないか、と。人間の体は特にそういう可能性を持っていると思うんですけども、自分自身の体を持っていて、当たり前のように手はここについていて、お腹に赤ちゃんを宿した人は帝王切開するかまたは下から産むという形で、それはもうこれくらいの年になったらみんな概念として分かっていて、それを裏切ることで、そこにどうしてという気持ちが生じたり、その意味を模索したり、見た人がそういった体験をしてくれる可能性を持っていると思うんで、わざわざリアルな世界を描写する必要もないと思うんですよ。

「にっぽんの台所」1999年 © 束芋
「にっぽんの台所」1999年 © 束芋
撮影:米倉裕貴。写真提供:原美術館

束芋のアーティストとしての座を確立するきっかけとなったのが、美術大学の卒業制作として発表された「にっぽんの台所」(1999)でした。ご飯の支度をしている主婦がたつ台所、という家庭的で誰もが見覚えのある風景をあらわしているのに、全体を通じて不安げな空気が漂っています。電子レンジの中で選挙活動を行う政治家、ビンの中で呪文を唱える老女、冷蔵庫の中で机に向かうサラリーマンなど、作品に点在する不条理な光景が、不気味なメッセージを伝えているのです。観客はこの作品を見るために、日本の国旗が描かれている障子と畳が並ぶ狭い木造の廊下を通らなければなりません。彼女の作品は明らかに社会問題を取り上げているので、私はそれらの作品が政治的な底意を持つのかどうかに興味がありました。

では「にっぽんの台所」で使った国旗はとても特徴的な対象物ですが、その作品を作っていた時に、日の丸に対する特別な考えがありましたか?

その時に作っていた時にちょうど国歌国旗法が制定されて、結構騒ぎになっていた頃だったんですね。国旗というものに対して、私はそれほど強い思いを抱いたことはないけど、あの国旗は凄くシンプルな凄く優れたデザインになっていて、日本というものを赤い丸だけで表現できる、凄く強いものだと思うんですよ。ただそれに、いろんな人が意味を付加してきていてしまっていて、私たち自身が体験しなかったことまで、今でも日の丸には込められているような、そんな形で日の丸って扱われやすいですよね。だけど私たちにとってどうか?って考えた時に、私たちは体験を伴っていない国旗に含まれる、例えば戦争や天皇のようなことをパッと想像するかというと、そうではないんですよ。

それを、おばあちゃん世代・お父さんお母さん世代というところからの刷り込みというか体験のない場所から情報だけで得たものというのをそこに投影している形で。だから実感を伴わないそういった情報というのは、単に情報でしかないと思うし、今の私たちの感覚というのを信じて表現しないといけないと思うんですよ。今まではどうだったとか、これはそういう意味合いを込められてしまうものだということではなくて、私自身は今まで30年生きた中でどう感じたかというのが大事だと思うんですね。実際にどう感じたか、が。

しかし、この作品では電子レンジに入っている政治家を描写しました。それは国旗と関係はありませんか?

政治家にしても日の丸にしても、一つの象徴なんですよ。ただの記号。それで日の丸に込められている政治的な意味合いというのを、私はそのままにしてはいけない気がするんですよね。国旗というのは、私は崇めるものでは決してないと思うんですよ。普通に記号として、存在というのをちゃんとみんなが意識していないと、逆に今単純に日の丸を描いた時に、みんなが何を想像するかというと、右翼なんですね。今、日の丸が右翼を想像させるということは、私は決していいことではないと思うし、いつまでも右翼のシンボルとして国旗というのが使われるのはどうかと思う。それぞれが国旗に対してどういう思いを持っているのかを正確に表現していくということが重要なんじゃないかな、と思っていて、そこでははじめ凄く大きな誤解を生むと思うんですよ。

今回、「にっぽんの台所」も「にっぽんの横断歩道」でも日の丸を使っているんですけど、この国旗を使った大きな意味というのは良く聞かれるんですね。だけど私にとっては、そうじゃないんだって繰り返し言うことが私自身の誠実な対応ですし、そのことを繰り返すことで、やっと分かってもらえることもあるだろうし、そのへんは私にとってこの国旗が、そこまで重要でないということを伝えることが重要なのかな、と思っています。ただの記号である、ということが。

「にっぽんの台所」の設置自体はお寺や神社のようなものだと感じました。そう考えて意図的に作りましたか?

それは偶然ですね。空間に対して、私が最小限のスペースで最大限の効果を出すためのことを、ずっとアイディアを出していきながら出来上がった形がああいう形で・・なるべくシンメトリーというのを考えていたんですけども。

お寺または神社より重要なのは、舞台みたいな設置ですか?舞台というコンセプトは?

一番はじめは考えていなかったんですよ、舞台っていう感覚を。でも最近、ダンスカンパニーの方とコラボレーションした時に、その方がやっていることと私がやっていることは結構似ているな、と思って。今までは凄く意識はしていなかったけど、そういった感覚でやってきたんだな、ということに最近気づきました。

「公衆便女」(2006)もまた観客に舞台を思わせる作品で、日常的な空間で奇妙な光景が見受けられます:何回も亀をトイレに流そうとする女性、トイレの壁にあらわれる文字、下着姿で鏡の前に立つ女性、そして最も邪悪なものとして、目がシャッターとなっていてバシャバシャと彼女を撮影する蛾、など。

「公衆便女」のためのイメージ 2006年 ヴィデオ インスタレーション ©束芋
「公衆便女」のためのイメージ 2006年 ヴィデオ インスタレーション ©束芋
写真提供:原美術館

展覧会を見に来る前、この作品のタイトルを見た時は、ジェンダーを取り上げる作品を想像していました。

いいえ、違います。今回は女子便所という設定は変わらないんですよ。女か男かというと、女の便所の方が。だからその意味で、女にしたんですけど、私自身もトイレでの行為というのは女性の行為しか見たことがないので、その上でも私の体験として、そこで行われる行為というのは想像できる、たくさん想像できる空間でもあるんですよね。あと、本当に女性はトイレでは色々なことをしているので、その面白さもあって。

女の人の鼻から生まれる赤ちゃんが亀と一緒にトイレの中に消えていくイメージは非常に奇妙にうつります。何を意味しているのですか?

今回は前の作品と違う象徴として・・・浦島太郎の話しを知っていますか?この亀は浦島太郎の亀で、浦島太郎って色々な風に伝えられているみたいなんですけど、結局浦島太郎自身が幸せかどうか、一つの人生として幸せかどうかっていうのは多分誰にも分からないと思うんですよね。だからその上で浦島太郎をのせていった亀というのが、善意でやったことなんだろうけど、浦島太郎を幸せにしたかどうかは分からない。そういった亀がはじめいじめられていて、最後の方で赤ちゃんを背負ってトイレの中に消えていく。助けられた亀というのは、善意を持って連れていったかもしれないけど、その赤ちゃんが幸せになるかどうかは分からないし、亀の上に自分の産んだ子供を乗せて流しちゃうような親にもし育てられたとしたら、それも幸せなのかどうか分からないっていうような、そういった関係性で。これはそのストーリーを知らなかったら全く気づかないし、それを知っていても気づかないと思います。 以前の作品には亀を男性の象徴として登場させたんですよ。だから全く同じように見えるものでも、私の中でも違う扱いをしたり。

そうですね、フラストレーションを感じているサラリーマンの代表として解釈できるのではないですか?

以前の作品ではサラリーマンが一人一人、亀に変身して流されていくというシーンがあるので、そういうことになっている。今回に関しては、浦島太郎の亀だと私は思っているんですけども、それが浦島太郎の亀として伝わらなくてもいいんですよ。特に今回は、そのへんは私の作品を組み立てる段階で必要だった要素として浦島太郎というのがあったんですけども、それが組みあがった段階では、色々な解釈ができるような状態においてあるので、それがどういうふうに感じられるのかなって私も興味があって、特にインタビューをしていただいた方々から、新しい発見がありました。

「公衆便女」のためのイメージ 2006年 ヴィデオ インスタレーション ©束芋
「公衆便女」のためのイメージ 2006年 ヴィデオ インスタレーション ©束芋
写真提供:原美術館

それから、「蛾」はどうですか?侵略的するかのように飛んでいますが。

蛾って蝶とそんなに形は変わらないのに、凄く気持ち悪いものとして扱われているんですよね。あそこでは蛾の目がカメラになってパタパタ飛んでいく、という設定になっていて、そのことからは、トイレで行われている盗撮やいろんな人の視線とか、バッと写真を撮ったその蛾が外に出ていってしまって、あとはどうなっているか分からない。

今インターネットなんかで、誰がピックアップされて、誰の話しをしているのかっていうのは、今までは普通に生活していて、全く話題にならない程度の凄く些細なことだったりも、インターネットというメディアではババッと扱われたりするわけじゃないですか。例えば自分自身もそこで話されたりしている可能性がある、とか。誰でも主人公にもなり、その気持ちいい主人公になるだけではなくて、中傷の対象になったり、知らないうちに写真を撮られて、みんなでその写真を見られている感覚というのがあると思うんですよね。その写真一枚からは何も分かるわけないんだけど、好き勝手を言っていたりとか、それがプラスに働くこともありますし・・・例えばこういう展覧会をやったらその情報が広がって、見に来てくれた人がインターネット上で色々宣伝をしてくれたりとかするんですよね。だからプラスもマイナスもあるんだけど、あの蛾の存在としては、いい悪いという部分ではないんですよ。ただ気持ち悪い存在ではあるな、と思って。どうなっているかも自分でも分からない、自分自身が話しの中心になっていても自分はそこに存在しないわけじゃないですか。そういう気持ち悪さは生まれてくるかな、と思います。

一般的にマスメディアはどう思いますか?例えば、「日本の台所」ではラジオから「今日、中学生が降るでしょう」という天気予報が聞こえて、メディアの報道と現実の異様な関係をあらわしています。束芋さんは作品を通じて、日本の社会的な問題を取り上げていますね。日本のメディアも取り上げようとはしていますが、私には表面的でしかないように思えます。どう考えていますか?

私自身にとっては、やっぱりモチーフでしかないんですよ、そういったことというのは。一つ一つの出来事というものに対して自分はどう考えるか、というのを探し当てるための一つの鏡なんですね。だからそれ自体がどうこうっていうよりも、私はそういった情報を受けてどう感じているかとか、その情報と私の関係はどういう形にあるのかとか、そういったことを考えるためのメディアというか。そこを介して自分自身は自分を知る、という感じで。だから自分自身を探していくために、自分の本心だったり自分にとっての忠実な感覚だったりする部分を探していくモチーフでしかなくて、自分が作っている間もそうなんですけども、作りあがって観客になった時に、観客として作品として関わっていく中で、また自問自答できる装置になってくるんですよね。 だからメディアがどうこうってメディアに対して意見を言いたいわけじゃないんですよ。でも取り上げているものが社会問題的なことなので、そのへんを全て分かってもらって批評していただくっていうのは難しいみたいで、ただそれは私にとっては社会批評ではないので、それは説明しているという感じです。

今はインターネットで、誰でも自分を表現できる時代ですよね。インターネットとアートギャラリーの違い、つまりその表現の領域の違いに対してどう感じていますか?

誰でも表現者として可能性があるという状態に今あるじゃないですか?もちろんインターネット上というのもそういった可能性があると思うんですよね。ただ私は今のところ、インターネット上での可能性というのは、私自身はそんなに信じていないというか、そこに面白みを感じていないので、そこにはそれほど参加する気持ちはないんですけども。だからホームページも作らないし。でも私ではないようなタイプの表現者にとっては、とても可能性がある場所かもしれない。それはコンビニエンスというか、家にいながら美術作品が見れるような、気楽にそういう情報をゲットできるような場所として最大限利用すれば面白いことができるかもしれないけど、観客に対してはどうなのかな、と思うんですよね。積極性というのを感じ、積極性を引き出せないのではないかと思うんですよ。でもそこに可能性があるんだったらそう信じている方はそっちで頑張っていくだろうし、私はこっちでの可能性を信じているので、結構極端な二本の軸があって、どんどん前に進んでいくんじゃないのかな、と思う。こっちはこっちで凄く譲歩されるだろうし、こっちはこっちで違った形で評価を得ると思っていますし。その中でいうと、完全に誰でもが表現する機会があるじゃないですか。簡単にインターネットという場所を使うこともできるし、例えば自分の部屋をオープンにして、自分の部屋を見せるというだけでも、それはそれで面白いことだと思うし。だから可能性としては何でもあると思うんだけど、私としては、まだ美術館やギャラリーという場所の可能性を信じている。

束芋さん、インタビューのためにお時間を割いていただき、ありがとうございます。非常に面白い展覧会で、伝えたいメッセージや作品に対する思いを聞くことができて、とても興味深かったです。今後どうように発展していくか、とても楽しみにしています。

Ashley Rawlings