「木彫」という言葉がふと頭に浮かんだが、彼はわずかながら他の素材を用いた彫刻も制作しているのである。少なくとも、今回の展覧会を見た上で彼の作風を「Mr. Everyman(ミスター・エヴリマン)」(※1)という形象のみによって代表させることは不可能であるように感じられた。
ところで、バルケンホールが70年代後半からウルリッヒ・リュックリームに師事していたという事実は、彼の作風を考える上で決して看過することができない。ミニマリズムの渦中にあった当時において、バルケンホールはそのドイツにおける代表格であったリュックリームのもとで製作を開始する。ミニマリズムやコンセプチュアリズムの台頭という時代状況と、その渦中に身を置いていたがゆえに湧き上がってくる懐疑。バルケンホールの徹頭徹尾「具象的」な作風は、そのようなコンテクストのもとで立ちあらわれてきたものだった。だが、その結果生み出されてきた作品、およびその展示方法は、単にミニマリズムからの別離であるというよりは、まさにこのようなミニマリズムに対する距離の「近さ」と「遠さ」とを同時に内包しているのではないだろうか。すなわちミニマリズム彫刻の本質的基底が、マイケル・フリードが語ったような「演劇性」にあるのだとしたら、バルケンホールの作品もまたミニマリズムにおける同様の側面をある程度まで受け継いでいる。
どういうことか。バルケンホールの人物彫刻はしばしば屋外に展示され、そこで日常的な空間を変容させるという側面をもつ。作家自身は、自分の作る人物像が実際の人間よりも少しだけ大きかったり小さかったりするのは、それが「彫刻であること」に重点を置いているため、あるいは屋外に展示された場合にひとがそれを本物の人間と見間違えないようにするためだ、とインタヴューの中で述べているが(※2)、まさにバルケンホールは近代的な美的態度である「純粋鑑賞」ではなく、作品の多様な「経験」の次元を重視していると言える。今回の作品はすべてオペラシティーギャラリー内での展示であったが、人物彫刻と同時に視界に入るような位置に「背景」らしきタブローが展示されており、その彫刻群は鑑賞者の視点によって常に作品外の要素と結ばれるように意図されているのである。
バルケンホールが「ミニマリズム以後」という同時代的状況とみずからの作風との関係に自覚的であることは、諸々のインタヴューなどから十分察することができる。ただし上記のように、バルケンホールの具象彫刻はある面においてミニマリズムと根本的な部分を共有しているといえるのではないだろうか。私見では、それはまったく否定的な要素ではなく、むしろバルケンホールのある種の彫刻作品は、ミニマリズムの生産的な側面をまったく異なった表現によって継承した稀有な例なのではないかと考えている。
※1:どこにでもいそうなみずからの人物像を指して、バルケンホール自身が用いた言葉。
※2:『美術手帖』2005.11, p. 57(美術出版社)