公開日:2024年5月10日

ピエール・ユイグ「liminal」(ヴェネチア、プンタ・デラ・ドガーナ)レポート。安藤忠雄設計、歴史ある建物に広がる人間不在の世界

フランス人実業家であるフランソワ・ピノーの私設現代美術館、プンタ・デラ・ドガーナで11月24日まで開催中

会場風景より、《Liminal》(2024) 撮影:編集部

人間・非人間との関係をテーマに思索的な作品を手がけてきたピエール・ユイグの個展「liminal」が、ヴェネチアの美術館、プンタ・デラ・ドガーナ(Punta della Dogana)で開催中だ。会期は11月24日まで。キュレーターはアン・ステンネ(Anne Stenne)。

「Liminal」とはおもに生理学、心理学の分野で「域値」「境界」などの意味で用いられる言葉だが、2019年以降はインターネットミームの「Liminal Spaces」で一躍英語圏以外にも広く知られるようになったワードだ。「Liminal Spaces」とは、誰もいない薄暗い廊下や広大な踊り場など、人が作ったにも関わらず人の存在が感じられない不気味で違和感のある空間のことで、ときに懐かしさ、悲しみをも引き起こすとされている。ユイグの個展「liminal」はまさにそのような展示になっていた。

会場風景より、《Offspring》(2018) 撮影:編集部

作品世界を強固にしているのは、美術館が持つ場の雰囲気だ。美術館やギャラリーが多数存在するヴェネチアのドルソドゥーロ地区の先端にある同館はもともと、税関関連の施設として1682年に誕生。300年以上もの歴史を持つ建築は安藤忠雄が2006年よりリノベーションするかたちで再設計され、2009年、フランス人実業家であるフランソワ・ピノーの私設美術館として再生した。

プンタ・デラ・ドガーナ外観 撮影:編集部

建築から漂う歴史の重み、安藤建築の現代的な風情が混ざり合う空間は、ユイグの作品世界と合わさって唯一無二の世界観を作り出している。

会場でまず人々を出迎えるのは新作の《Liminal》(2024)。人間の女性の身体を持つ生物だが、顔が空洞になっておりホラーマンガのような不気味さがある。映像ではその生物が奇妙なジャスチャーを行っている様子が見られるが、解説によるとこれらの振る舞いはリアルタイムシミュレーションとセンサーによって刻々と変化しているのだそうだ。

会場風景より、《Liminal》(2024) 撮影:編集部

並置されるのは、前述の生物の振る舞いに影響を与えていると思しき、人間が知覚する情報、できない情報を中継するアンテナ《Portal》(2024)と、溶岩である玄武岩で鋳造された、出産直前の人間の腹部をかたどった《Estelarium》(2024)。この新作群だけでもいくつもの物語が呼び起こされる。

会場風景より、《Portal》(2024) 撮影:編集部
会場風景より、《Estelarium》(2024) 撮影:編集部

コンスタンティン・ブランクーシ作品(レプリカ)の中にヤドカリが生息する《Zoodram 6》(2013)、横たわる裸婦の下半身をかたどった彫刻の表面にヒトデが佇む《Abyssal Plane》(2015)などからは、現在の人間社会が消失し、海中都市となった人間亡き後の世界を想起させる。

会場風景より、 《Zoodram 6》(2013) 撮影:編集部
会場風景より、《Abyssal Plane》(2015) 撮影:編集部

こうした作品に加え、会場を練り歩く3体の非人間といったパフォーマンス要素もある本展は、どこをとっても映画的・演劇的な物語性にあふれる展示だ。

各空間に突如出現する3体 撮影:編集部

《Camata》(2024)は、より直接的に人間の不在を描いている。スクリーンの映像ではチリ・アタカマ砂漠に横たわる人間の骸骨を機械が取り囲み、何かの儀式のようなことを行っている様子が映される。本作は一見するとシンプルな映像作品だが、機械学習によるロボット工学、AI技術、センサーなどによって無限に編集され続けているのだそうだ。骸骨を取り囲み延々と儀式を行う機械のように、私たちが消えたあとも永遠に映像編集は繰り返されるだろう。その作品を見るのはいったい誰(なに)か?と思わずにはいられない。

会場風景より、《Camata》(2024) 撮影:編集部

その問いに対してユイグなりのユーモアをも感じさせる回答は、人の脳活動をとらえ、心的イメージをヴィジュアル化した《UUmwelt – Annlee》(2018-24)と、立体作品の《Mind’s Eyes》(2024)。《UUmwelt – Annlee》で高速再生されるのは、人間の脳活動によって生成されたヴィジュアルだ。

会場風景 撮影:編集部
会場風景より、《Mind’s Eyes》(2024) 撮影:編集部

じっと映像を眺めていると、人間由来でありながらも人の手に負えないような抽象的イメージに恐怖感が湧き上がってくるが、そんな同作の正面に配置されているのが、《Mind’s Eyes》(2024)だ。手を地面につき、《UUmwelt – Annlee》をじっと鑑賞しているようなその作品は、私たち亡きあとも本作に対峙する鑑賞者だろうか。「これはあなたたち人間のための展覧会ではありませんよ」と伝えるように。

本展は2025年2月にはソウルのリウム美術館に巡回予定。

野路千晶(編集部)

野路千晶(編集部)

のじ・ちあき Tokyo Art Beatエグゼクティブ・エディター。広島県生まれ。NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]、ウェブ版「美術手帖」編集部を経て、2019年末より現職。編集、執筆、アートコーディネーターなど。