アートの仕事は「ディアスポラ的な夢の空間」を作ること。アイザック・ジュリアン インタビュー(聞き手: 清水知子)

日本初公開となる映像インスタレーション作品《Ten Thousand Waves》は、9つのスクリーンからなる「映像詩」。移住やディアスポラのあり方など一貫したテーマを追求するアイザック・ジュリアンにインタビュー(構成:菊地七海)

アイザック・ジュリアン 2017 Photo by Thierry Bal

アイザック・ジュリアンは、移住、ディアスポラのあり方といった一貫したテーマを追求するアーティストである。1960年、西インド諸島・カリブ海のセントルシア島からイギリスに移住した両親のもとに生まれ、84年セント・マーチン美術学校を卒業。83年には黒人やアジア系ディアスポラ(移民・植民)の視点をイギリスの文化議論の場に紹介するため周囲のアーティストらと「サンコファ・フィルム・アンド・ビデオ・コレクティブ」を共同設立。91年には自らの映像プロダクション会社ノーマル・フィルムズを設立し、同年、長編映画 『ヤング・ソウル・レベルズ』がカンヌ国際映画祭批評家週間で受賞。2001年にはターナー賞にノミネート、2003年にはクンスト・フィルム・ビエンナーレ(ケルン)で審査員大賞を受賞するなど、数々の受賞歴がある。2017年には大英帝国勲章コマンダー(CBE)を受勲し、2022年にはナイトの称号を授与された。現在、ロンドンとカリフォルニアを行き来しながら制作を続けている。

エスパス ルイ・ヴィトン大阪で9月22日まで開催中のアイザック・ジュリアン「Ten Thousand Waves」展では、映像インスタレーション《Ten Thousand Waves》(2010)を日本初公開している。2004年にイングランド北西部の海岸で起きた遭難事故により命を落とした中国人労働者23人の存在をきっかけに制作された本作は、会場内に設置された9つの大型スクリーンを行き来しながら鑑賞する、特徴的なインスタレーションだ。その構成を採用した意図や、作品に通底する思考とは何か。展示にあわせて来日したジュリアンに文化理論、メディア文化論の専門家である清水知子が話を聞いた。(通訳:山田カイル)【Tokyo Art Beat】

マルチスクリーンの効果

──《Ten Thousand Waves》は、制作から14年経つとは思えないほどリアリティがあり、時を超えた作品であるように感じました。この作品を手がけようと思ったきっかけは何だったのでしょう?

2004年の遭難事故のことをある種メモリアルに扱いたかったということと、人が持つ移動や旅に対する欲望、そうした気持ちの射程みたいなものに、ドキュメンタリーではないかたちで応答したかったのです。同時に、中国文化の探求という側面もあります。作品に登場する媽祖神(まそしん)という存在自体が、移動文化や漁業の守護神として中国で信仰されている神ですが、そうした文化と、昨今の移民にまつわる議論との対峙という一面も持っている作品だと思っています。さらに制作過程で、たとえば中国の産業化に目を向ける瞬間があったり、通常、美的に探求されることがない問題に対して、あえて美的な、視覚的・音響的なアプローチをしたいという考えに至りました。

Ten Thousand Waves 2010(アイザック・ジュリアン「Ten Thousand Waves」[エスパス ルイ・ヴィトン大阪]展示風景) 9スクリーンインスタレーション、デジタル変換された35mmフィルム、カラー、9.2サウンド Courtesy of the artist and Fondation Louis Vuitton, Paris © Jérémie Souteyrat / Louis Vuitton

──そうした美的なアプローチのひとつとして、スクリーンの中だけではなく、展示空間そのものも非常に工夫されていると思いました。会場に入ると巨大なスクリーンが9つあり、次々と映し出されるスクリーンの映像に呼び寄せられるかのように鑑賞者が移動していく。マルチスクリーンがアテンションを誘導する物語装置として機能していました。現代・1930年代・明の時代を交錯する物語の舞台の中を、見ている私達も旅するような感覚になるのが印象的でした。ロシアの美術批評家、ボリス・グロイスが、「美術館はパーマネントのコレクションのための場であることをやめ、移り変わるキュレーションされたプロジェクト、ガイドツアー、上映、講演、パフォーマンス等の舞台となった」と語ったことを思い出しました。今回の展示空間も新しい形式のなかで試みられたそうした美的探求アプローチのひとつではないかと思いました。

メディア革命みたいなものは前提としてあります。僕にとってマルチスクリーンが面白いのは、会場内にアーキテクチャを作ることができるからです。鑑賞者が、自分のペースで、好きな順番で会場を周る。僕はそれを「モバイルな鑑賞」と呼んでいるのですが、見る人に挑戦を強いるようなものだとも思います。そしてSNSやiPhoneを筆頭に、人々がスクリーンを通してメディアに関わる現代のスマートフォン文化においては、すべてが「アテンション・エコノミー」で、つまり人々の関心というものが経済に換算されています。ですがアテンションについて考えるときには、僕はエコノミーの問題よりも、どちらかというとポエティックスのある「アテンションの詩学」というようなものに興味があります。

これは僕も教えているカリフォルニア大学サンタクルーズ校の文化批評、ジェニファー・ゴンザレス氏に指摘された言葉ですが、アテンションの詩学のなかでは、見る人は注意を引かれながら、イメージの遊びや、そこに新しい見方が追加される・生まれるプロセスに加わることができるのではないかと思います。マルチスクリーンは、複数のイメージを対置して、まさにそうした新しい意味や読みを作る遊びが受容されやすい形式ではないでしょうか。

Ten Thousand Waves 2010(アイザック・ジュリアン「Ten Thousand Waves」[エスパス ルイ・ヴィトン大阪]展示風景) 9スクリーンインスタレーション、デジタル変換された35mmフィルム、カラー、9.2サウンド Courtesy of the artist and Fondation Louis Vuitton, Paris © Jérémie Souteyrat / Louis Vuitton

──アテンションの詩学を実践していくにあたり、複数のスクリーンに投影されるイメージやタイミングは、どのように選択しましたか?

たとえば冒頭は、赤外線カメラの映像から始まります。それは空中のヘリから事故の生存者を探している視点ですが、それに対する応答として、マギー・チャン(張曼玉)が媽祖神を演じている場面では、彼女もまた、あたかも生存者を探しているかのように上から下への目線で見下ろしている。そこにヘリの音が重なることで、いくつかのレスキューが並行して行われているような感覚になる。さらにワン・ピン(王屏)による詩や、書家のゴン・ファーゲン(鞏法根)らのキャストも登場します。こうして複数の視点を織り交ぜていきました。

それからもうひとつ、別の時代を行き来するような感覚を作るようにしました。これは初期作の《Looking for Langston》(1988)から実践していることです。僕は複数の時間が審判し合っていくことに非常に関心があって、マルチスクリーンのおかげで、それをさらに分解して提示しやすくなったと感じました。

Ten Thousand Waves 2010(アイザック・ジュリアン「Ten Thousand Waves」[エスパス ルイ・ヴィトン大阪]展示風景) 9スクリーンインスタレーション、デジタル変換された35mmフィルム、カラー、9.2サウンド Courtesy of the artist and Fondation Louis Vuitton, Paris © Jérémie Souteyrat / Louis Vuitton

直線的には表現できない時間性

──複数の視点で複数の時間を一気に立ち上げる仕組みが非常に面白いと思うと同時に、俳優のマギー・チャン(張曼玉)とチャオ・タオ(趙濤)によるフィクションの時間と、遭難事故という現実の時間が融合することで、ここか、あそこかといった二元論ではなく、ある意味でクィアな時間性が創出され、死者へのレクイエムになっているように感じました。移動には様々なレイヤーがあります。移民や難民、奴隷、労働者は、言わば、過去から未来に一直線に流れる時間性そのものを作ってきた帝国主義から、時間を奪われた存在でもあります。その時間性をもう一度取り戻すために、直線的ではない、両義的な、ある種「ディアスポラ的な時間」のようなものが、ここで生成されているのではないかと感じました。二元論に陥らない「間」がいくつも立ち上がるところが、ポイントになっているのではないでしょうか。

素晴らしい読みだと思います。この時間性に関しては、ブラジル人建築家のリナ・ボ・バルディの建築コレクションを横断した《Lina Bo Bardi—A Marvellous Entanglement》(2019)にも顕著に現れています。これは、リニアな時間モデルが、労働時間を計るために西洋が発明したものであるということを指摘している作品です。悲劇を扱うとき、その背後にある時間構造──様々な時代をまたいで複雑な事象が起き、時間自体が円環しながら変化し続けている──は、やはり直線的には表現できないと思うんです。

また、文化政治的なテーマに対して応答しようというとき、アートには、文化史家のサイディヤ・ハートマンが言うところの「クリティカル・ファビュレーション」、すなわち批評的・文化的な魅惑化のような作用があるのだと思います。つまりある事象にまつわる不在、そこで消去されているものを描くという図像の作り方を、どうしたらイメージの中に取り込めるかということを、ずっと考えてきました。歴史性を読み直し、本来語ることができない物語を再構築して語り直すことで、ありえたかもしれない時間を生み出す。《Ten Thousand Waves》では、まさにこうしたことに取り組もうとしました。

Ten Thousand Waves 2010(アイザック・ジュリアン「Ten Thousand Waves」[エスパス ルイ・ヴィトン大阪]展示風景) 9スクリーンインスタレーション、デジタル変換された35mmフィルム、カラー、9.2サウンド Courtesy of the artist and Fondation Louis Vuitton, Paris © Jérémie Souteyrat / Louis Vuitton

──遭難事故で命を落とした人々は、貝を収穫することを生業としていた不法移民の人たちでした。かれらの労働は、貝を食する我々の日常生活には不可欠です。海と労働と、そこで命を失ってしまう人々……。《Ten Thousand Waves》を見たとき、ターナーの《奴隷船》をめぐる、ポール・ギルロイのエッセイを思い出しました。

ギルロイのエッセイによると、1840年に《奴隷船》が描かれたとき、イギリスのジョン・ラスキンら批評家は、同作を海という美学的な観点から論じるいっぽうで、海に投げ出された黒人奴隷たちの姿に意義を見出すことはなく、この光景は、西欧近代の美学的な砦から注意深く排除されてきました。ギルロイは、この絵をめぐるエピソードをふまえながら、人種的主題がイングランドの美学的原理、あるいはイングランドに象徴される国民的な自己意識のなかで、いかに戦術的に消去されてきたのかを分析します。彼がここで問うたのは、消し去られた黒人の創造力を既存の歴史に組み込むことではなく、なぜ黒人は「見えない存在」だったのかを解き明かし、新たな価値を創造していくことでした。なぜなら、黒人の創造力を「もう一つの物語」として西欧の美術史のなかに書き込んだとしても、その根幹にある西欧近代芸術の普遍性そのものは無傷で温存されるからです。『Ten Thousand Waves 』は、こうした西欧の美術の歴史に対する応答でもあるように感じました。

完全に同意します。ポールの指摘は、まさに《Ten Thousand Waves》の成り立ちと呼応する話だと思います。だからこそ僕は、ハイカルチャーのものとされてきた美的な領域の価値体系自体をほどくということをやってきたつもりです。その戦略への抵抗もあってか、かつては僕の作品のそういった側面は軽視されてきました。それが近年、西洋のみならず、複数のモダニズムが重なり合う世界に我々は存在しているという認識が広まり始めてから、僕の作品の需要が広がったような気がしています。

Ten Thousand Waves 2010(アイザック・ジュリアン「Ten Thousand Waves」[エスパス ルイ・ヴィトン大阪]展示風景) 9スクリーンインスタレーション、デジタル変換された35mmフィルム、カラー、9.2サウンド Courtesy of the artist and Fondation Louis Vuitton, Paris © Jérémie Souteyrat / Louis Vuitton

テクノロジーの美学に関心がある

──活動初期のこともお聞かせください。ジュリアンさんは、セント・マーチン・スクール・オブ・アートでビデオカメラを手にしたことが映像の世界に入るきっかけとなったそうですが、《Who Killed Colin Roach?》(1983)や《Territories》(1984)、そして《Looking for Langston》といった80年代前半の作品は、サッチャリズムが始まり、レイシズム、エイズ、それから「セクション28」(教育現場において同性愛に関する言及を禁じる地方自治法28条、2003年に撤廃)といったものがまかり通る時代でした。その過程で、移民の人々が自ら「ブラック」のイメージを作り直し、問題を語り直していく様々な手法が編み出されました。もちろん「ブラック」という言葉の意味も大きく変化していくわけですが、構造的に不均衡な視覚/ヴィジュアルの力学を問い直していく際、これまでにない形式をテクノロジーとともに創出していったことも重要なポイントだと思います。テクノロジーによって新しい語りを生み出すということについては、どうお考えでしょうか?

セント・マーチンの同期にはピーター・ドイグらがいてよく一緒に絵を描いたりしていたのですが、卒業製作に向かうなかで、映像に関心が移っていきました。映像には即時性があって、絵画よりもポストモダンな実践をしているという感覚があったんです。ビデオアートを習っているときに身に付けたカメラの使い方を、ストリートに流用するという意識で作ったのが、《Who Killed Colin Roach?》や《Territories》です。これらがテートで展示されるとは、当時は思ってもみませんでした。

ビデオカメラや8ミリフィルムは、僕にとってはスマートフォンのようなものです。誰でも自分でイメージを作ることができ、あるいは何かが起きているときに記録することができ、それがときに社会変革につながったりする。そういった即時性と流用可能性が、テクノロジーの大事なところだと思っています。同時に、テクノロジーを用いて作る作品の中に、絵画的・美的な問題意識を持ち込みたいとも考えていました。僕はテクノロジーの美学というもの──テクノロジーを通して、いかにイメージが枠付け直されるか──にかねてより関心があって、これはメディアの歴史そのものにも呼応する問題意識だと思います。いまは、イメージがフェイクでもありうるということを皆が強く意識し、目にするものへの信用が失墜している。それが政治不信にもつながっているように思います。こうした、「見る」ということに関わる問題をつねに意識しています。

クィアネスと映像、資本主義と美術

──クィアネスと映画の問題についてもお伺いさせてください。90年代にはアメリカの映画批評家、ルビー・リッチによって「ニュー・クィア・シネマ」と名付けられた一連の映画とその実践が展開されていきます。クィアネスと映像を巡るポリティクスは、80年代から現代までの間にかなり変化していますが、この点についてはどのようにお考えですか?

クィアネスと《Ten Thousand Waves》のような作品は、非常に関係が深いです。僕の映像は、時々「美しすぎないか?」と批評されることがあるのですが、その背景には、ある種のホモフォビアがあると思っています。あくまで僕の作品には、僕が持っている詩的な、絵画的な問題意識が反映されているまでで、突き詰めれば僕自身の欲望を反映している。より良い生を求めて移動(移住)する人たちは、たんに生活のためだけに移動しているわけではなくて、そもそもどこか別のところに行きたいという、旅に対する欲望を持っている。僕はそれに呼応する作品を作っているつもりで、そこには、僕自身が中国文化をもっと見たいという欲望も同様に存在しています。中国の現代美術の展開を見たとき、美学のクレオール化みたいなものが発生している気がしました。それはつまり、イメージをクィア化していくということかもしれません。だからこそ僕は、マギー・チャン(張曼玉)に媽祖神を演じてほしいと望みました。亡くなった人たちのことを記憶に残し、祈念すべく、チャオ・タオ(趙濤)が演じる登場人物が喪に服しているような場面を、絵画的な問題意識のもとに作りたいと思ったのです。そこに存在するクィアな視点を「美しすぎる」と評することは、やはりアンチ・クィアだと言わざるを得ません。

アイザック・ジュリアン  Mazu, Turning(Ten Thousand Waves) 2010 © Isaac Julien Courtesy the artist and Victoria Miro

──資本主義と美術の問題にも目を向けてみたいと思います。美術と資本主義は多様な方法で結びついています。略奪品の返還もそのひとつですが、あなたの作品の中では、「Poetic Restitution(詩的な返還)」という言葉で語られていますね。

身体というのは、基本的に資本に付き従って動いていくものです。昨今、テレコミュニケーションが可能にした「移動」を礼賛する向きもありますが、いっぽうで資本にまつわる移動の欲望というものには、様々な制約がかけられている時代でもあります。アフリカからの逃亡者たちを描いた《WESTERN UNION: Small Boats》(2007)では、なぜ人は移動するのかということを思考しました。物の移動や労働に伴う移動もありますが、基本的にはやはり資本の問題が大きくて、例えばあるひとつの映像を作るとき、または「貝を食する」とき、その背後には多大な労働が必要となります。資本のことを考えるときには、資本が余剰として生み出す欲望について考えることも重要ではないかと思うのです。

同作中でも語っていますが、より良い生活などの欲望を胸に、船に乗って移動する人たちは、最終的には沈没など惨憺たる結果に至る可能性が高いのですが、それをわかっていてもなお、行動してしまう。このことを美化するつもりはありません。結局は、選択肢がないのです。

こうして戦争が続き、世界が均一化されていく現代において、アートに何ができるのか。それは、ある種の対抗的想像力みたいなものを導入し、こうした状況に対して責任を取る空間──「ディアスポラ的な夢の空間」というふうに僕は言っているのですが──つまり、自分が欲するものになれる場所を作ることではないでしょうか。それこそが、アートの仕事だと思っています。これはある種のディストピア的な世界観と鏡写しであるいっぽうで、逆に資本があることで可能になることもあり、必ずしも100パーセントネガティブにとらえる必要はありません。より良いことに資本を使いたいという欲望もまたあるはずです。いかにプラグマティックな関係を結ぶかということが重要なのです。

アイザック・ジュリアン Green Screen Goddess(Ten Thousand Waves) 2010 © Isaac Julien Courtesy the artist and Victoria Miro

代弁主義に陥らず、アートの自律性を保つ

──ディアスポラについて考えるとき、イスラエルとガザをめぐる現状を無視することはできません。悪化の一途を辿る現在の危機的状況に対して、ディアスポラ的なネットワークというものに、どのような可能性があると思いますか?

そういったディアスポラのネットワークは実際にあると思います。ユダヤ人の組織でもやはり停戦を呼びかけている人たちはたくさんいて、いまニューヨークやロンドンでもそうした動きはよく見られます。じつは早い段階で、ガザの現状に対する署名運動が立ち上がって、僕も署名しないかと声をかけられたのですが、内容に賛同できず、署名しなかったんです。なぜなら、ハマス批判が一切含まれていなかったからです。僕は、いまでもハマスがやったことに関してはすごく批判的です。以前は、イスラエル内で、あるいはユダヤ人の中ではネタニヤフに対する批判の声が非常に大きく、ネタニヤフを下そうというデモが盛んに行われていました。停戦になれば、すぐにまた矛先が彼に向かうはずだと思います。

先日、カリフォルニア大学バークリー校でアンジェラ・デイヴィスとジュディス・バトラーとトークをしたのですが、そういった政治的な状況のなかで自分たちをどう位置づけるかということをアートワールドで考えるとき、どのような応答があるだろうかということをアンジェラが問うていました。僕は、どちらにつくかという二元論的な話ではないはずだと思います。この状況にいつか終わりが来るとき、誰がどのように責任を負うのかということに帰結するはずで、そのときに、やはりアートを道具化していく欲望みたいなものは、つねにつきまといます。

いっぽうで、アートが独自にできることを確保しておくこと、自律性を保つことも必要です。僕は代弁主義には陥りたくない。これまでの作品でも、つねにある種政治的な問題は描いてきましたが、誰かを代弁するためにやっているわけではありません。《Ten Thousand Waves》も、自分自身がディアスポラの立場からディアスポラの歴史を見たとき、海に溺れて死んでしまうという事実が、黒人としての僕の経験や、黒人が担ってきた歴史にも共鳴するものだった。そうしたところに共感して作った作品なんです。やはり自分と、とあるイシューの間にはなんらかの関係性があることが、作家として応答する上で必要不可欠だと思うのです。

清水知子

清水知子

しみず・ともこ 東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授。愛知県生まれ。筑波大学大学院博士課程文芸・言語研究科修了。博士(文学)。専門は文化理論、メディア文化論。著書に『文化と暴力――揺曳するユニオンジャック』(月曜社)、『ディズニーと動物――王国の魔法をとく』(筑摩選書)、『21世紀の哲学をひらく――現代思想の最前線への招待』(共著、ミネルヴァ書房)、『芸術と労働』(共著、水声社)、『コミュニケーション資本主義と〈コモン〉の探求――ポスト・ヒューマン時代のメディア論』(共著、東京大学出版会)など。訳書に、ジュディス・バトラー『非暴力の力』『アセンブリー行為遂行性・複数性・政治』(共訳、青土社)、アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート『叛逆 マルチチュードの民主主義宣言』(共訳、NHKブックス)、デイヴィッド・ライアン『9・11以後の監視』(明石書店)など。